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2026/02/24

海外blog 琉球平和主義という神話の検証  グレゴリー・スミッツ

 引用元:https://apjjf.org/Gregory-Smits/3409/article



概要は

1. 「平和な琉球」という現代のイメージ
現代のミュージカルや宣伝物では、尚巴志による三山統一が「平和で情熱的な沖縄アイデンティティの確立」として美化されています。そこでは、実際に行われた激しい軍事衝突や暴力の歴史が意図的に避けられ、現代人の願望が投影された「平和な王国」という虚像が作られています。

2. 歴史的実態:武力による征服
17世紀の正史『中山世鑑』を紐解くと、尚巴志の統一は「血に染まる草地」や「死体の山」と表現されるような、凄惨な武力行使の結果であったことが分かります。当時の記録は、現代のソフトなイメージとは異なり、尚巴志を強力な軍事力を持った「征服者」として描いています。

3. 「非武装神話」の起源と政治的背景
琉球が「武器を持たない平和な国」というイメージ(神話)を戦略的に使い始めたのは、1609年の薩摩侵攻以降です。薩摩・幕府・中国という大国に囲まれる中で、軍事力ではなく「儒教的な徳を備えた礼節の国」であることをアピールすることで、政治的な自律性を守ろうとしたエリート層の外交戦略がこの神話のルーツです。



現代における琉球平和主義の神話 の章をAI和訳する

現代における琉球平和主義の神話

ウェブサイトで「沖縄」や「琉球」という言葉に、「平和」「武器」「レイプ(暴行事件)」といった単語を組み合わせて検索すると、膨大な数のサイトがヒットする。それらのトピックは、米軍基地問題、1995年に起きた忌まわしい12歳少女への暴行事件、沖縄の武道、その他の工芸品、そして沖縄の歴史など多岐にわたる。これらのサイトの内容の質はさまざまで、中には学者や沖縄の歴史・文化に精通していると自称する人々によるエッセイも含まれている。内容は多様だが、多くのサイトに共通しているのは、現代の政治的意図に奉仕する形で、沖縄あるいは琉球の平和主義という「ロマンチックな神話」を永続させている点である。

琉球平和主義という神話を肯定的あるいは受動的に受け入れる傾向は、歴史学者やその他の学者の間でも一般的である。その通常の手法は、主張されている「平和主義的な過去」と「軍事化された現在」を並置することだ。例えば、ガバン・マコーマックは1609年から2009年までの400年間を二組の矛盾という観点から特徴づけており、その一つを「沖縄に深く根ざした平和志向と、強制された戦争および武力による服従の優先順位との間の矛盾」としている。この「深く根ざした平和志向」が具体的に現れた例として、彼は次のように述べている。

おそらく作り話(アポクリファ)であろうある物語によれば、1609年に尚寧王が薩摩の圧倒的な軍事力に対して非抵抗を選んだ際、『命どぅ宝(ぬちどぅたから)』という言葉を発したという。彼が実際にそう言ったかどうかにかかわらず、これらの言葉は沖縄の価値観を象徴するものとして理解されるようになった。尚寧の屈服は降伏を意味しなかった。物理的に優れた相手を前にして屈服は避けられなかったが、良心と価値観までが武力によって奪われることはなかったのである。

「命は宝である」を意味するこの発言を尚寧王(在位1587-1620年)のものとする説は、沖縄史の特定の出来事について作り上げられた豊富な「偽伝」の一つに過ぎない。マコーマックをはじめとする多くの著述家は、平和を愛する心は現在も過去数世紀も変わらぬ沖縄の本質的な特徴であると示唆している。しかしながら、尚寧王の薩摩への降伏について、まったく異なる記録を検討してみよう。

スティーブン・ターンブルは、1609年の薩摩と琉球の戦争に関する近著の中で、3,000人の兵士(加えて5,000人の水兵と労務者)からなる薩摩の侵攻軍は非常に優れた動きを見せたが、侵略者にとって戦闘は決して平坦なものではなかったと説明している。その理由の一つは以下の通りである。

……おとなしく降伏したのは沖永良部島だけであった。奄美大島、徳之島、そして沖縄本島での抵抗は激しいものだった。しかし、最終的に事態を決したのは、島津軍の火器(鉄砲)の優位性と、兵士か非戦闘員かを問わず容赦なく火と剣を用いる彼らの冷徹な覚悟であった。




(中略)


薩摩の艦隊が那覇港に進入しようとした際、琉球の防衛部隊はこれを撃退した。もし琉球軍が、首里城への陸上攻撃に対しても同様の功績を挙げることができていたならば、王は琉球にとってより有利な条件で終戦交渉を行うことができたはずである。ここでの重要なポイントは、王も、将軍たちも、その軍隊も、「非抵抗を選んだ」わけではないということだ。彼らは、侵略者が王の目の前まで戦い抜いてくるその瞬間まで、猛烈に抵抗したのである。「命こそが宝である(命どぅ宝)」という認識が王国の最高指導部にとって明白になったのは、ようやくその時点になってからのことであった。

よく知られているように、現代の沖縄の土地の約5分の1は米軍基地で占められている。基地の存在は、騒音やその他の環境破壊、軍人による性的暴行を含む様々な危険、そしてその他の諸問題の源となっている。こうした現状に対し、「平和な琉球の過去」と「軍事化された沖縄の現在」を巧みに並置して提示することは、基地がもたらす明白な諸問題に加えて、その存在が「平和を愛する沖縄の人々の精神や魂そのものを侵害している」という示唆を与えることになる。

このような修辞的戦略(レトリック)は、とりわけ「犠牲者としての沖縄人」というイメージの切実さを強める役割を果たす。また、より平和な世界を切望し、平和な基盤の上に成り立つ国家が可能であるという兆しを過去に求める沖縄の人々やその他の人々にとっても、この語りは一般的に魅力的なものである。事実、のちに見ていくように、ナポレオン戦争後のヨーロッパ人の一部が抱いたまさにそのような切望こそが、「琉球平和主義」という神話を生み出したのである。


以下略
気になる方は
https://apjjf.org/Gregory-Smits/3409/article
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引用 ここまで
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命どぅ宝はセリフだよ!


戦さ世ん 終わてぃ 豊世んやがてぃ 嘆くなよ臣下 命どぅ宝


「「命どぅ宝」は、しばしば尚泰の詠んだ琉歌と説明され、政治的演説でも引用されてきた。

しかし、その歴史的根拠は確実とは言い難い。作家の大城立裕は、これを「俗説」とし、出典は近代演劇にある可能性が高いと指摘する。1932年初演の山里永吉作『那覇四町昔気質』では、東京へ向かう尚泰が那覇港で別れを告げる終幕にこの歌が置かれ、「散山節」で幕となる。山里自身も同年の「琉球新報」で当初は『那覇四町』の結末演出であったとしている。ところが後年、この場面が『首里城明渡し』に取り込まれ、あたかも歴史的場面の再現であるかのように受け止められていった。

さらに、真境名由康作『国難』では、同じ「命どぅ宝」の歌が薩摩侵入時に連行される尚寧の台詞として首里城内で登場する。つまり人物も時代も異なり、歌は作品間を移動しているのである。大城はまた、作者は山里ではなく、尚泰を演じ多くの琉歌を創作した名優伊良波尹吉である可能性が高いと推測する。山里の台本は日本語で書かれており、琉歌の創作能力を考えれば伊良波作とみる方が自然だという。

このように見ると、「命どぅ宝」は歴史上の歌というより、1930年代の舞台創作が反復上演の中で歴史化された産物と理解すべきだろう。



誤解が海を渡る!


「「平和の礎」でクリントン米大統領が、「命どぅ宝」の文言を「琉球の最後の王、尚泰が詠んだ詩」として演説に引用した


「戦の時は終わりゆく。平和は遠からじ。諦めることなかれ。命こそが宝なり。」 尚泰王の詩が、我々の友情と、今後、何ヶ月、何カ年にわたる我々の仕事を導き続けてくれます。稲 嶺知事、知事のお言葉と指導力に感謝いたします。結局のところ、尚泰王の言葉は、私達の時代にそれ を成し遂げることができれば、「平和の礎」に名を刻まれた方々に対して我々のなし得る最良の追悼と なりましょう。

 九州・沖縄サミット開催の来沖時におけるクリントン米国大統領の平和の礎におけるスピーチ(全文仮訳)