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2024/10/06

先島 特に八重山諸島の人頭税について考える! 過酷な非人道的納税システム

 面白いサイトを発見した!
八重山独立運動のサイト - 暴虐なる琉球からの八重山独立を強く訴えます
https://yaima-dokuritsu.jimdofree.com/


 


八重山独立運動のサイト - 暴虐なる琉球からの八重山独立を強く訴えます

のコメント欄にこのような書き込みがありました


サンポール (火曜日, 27 8月 2024 07:32)

琉球人の大学教授の研究により、人頭税はなかったという主張もあるので、ファクトチェックしていただければありがたいです
これをが事実であるとすれば、琉球民族主義者がこれを利用し、抗弁できなくなり、勢いを削がれ足を掬われる可能性があります

『人頭税はなかった』 琉球・沖縄を学ぶ必読書
2015年09月27日10時42分 琉球新報
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-249506.html

サンポールさんへ (土曜日, 21 9月 2024 03:46)

人頭税がなかったんだとしたら、宮古島の若者らと中村十作は何を訴えたくてわざわざ国会に行ったんですか?
また石垣島の人頭税廃止100年記念事業の石碑は何なんですか?
記録では人頭税廃止の布告で多くの人々が泣いて喜んだとありますが、人頭税が無かったら、彼らは何を喜んだんですか?

そりゃ本島の人たちにしてみれば人頭税などなかったんだ!としたいでしょうが、現実に人頭税で苦しんだ離島には記憶と記録があります。

それを考えての発言でしょうか?

そこで 私安室波平がコメントを書いた
安室波平 (土曜日, 05 10月 2024 23:37)

人頭税がなかった!?
普通の県民が考えている”人頭税”とよばれるものは 
専門家の定義(狭義の意味)では ”人頭税”と呼ばないという意味です。

ただし 普通の県民が考えている”人頭税”そのものが無かったという意味ではないようです。

八重山独立運動のサイトにコメントした
「普通の県民が考えている”人頭税”そのものが無かったという意味ではない」
について書く

引用:『人頭税はなかった』 琉球・沖縄を学ぶ必読書
公開日時2015年09月27日 10:42
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-249506.html 
本書は、新たな歴史像を提示し、これまでの「人頭税」をめぐる議論に一石を投じている。議論の詳細については、実際に本書を読み解いていただきたいが、(略)近世琉球の王府が「間切・村」単位に租税を賦課していたこと、当時は夫役が中心であったために、先島地域のみならず、沖縄本島地域をも含めて「人頭税的」な租税制度ではあったが、決して「人頭税」では「なかった」ことなどを明らかにしている。

先島地域のみならず、沖縄本島地域をも含めて「人頭税的」な租税制度ではあったが、決して「人頭税」では「なかった」ことなどを明らかにしている。

っという事ですね

沖縄本島にも宮古八重山にも「人頭税的」なものはあった
定義の問題で「人頭税」と「人頭税的なもの」は別物だが、税制度に詳しくない一般人としては(いわゆる)人頭税はあった!

でよいと思います(笑)

たとえば、、、
沖縄そばには、「そば粉」が使われていないので「そば」ではない!
よって沖縄そばは無い!

こんな感じですかね?


それでは、、続いて

八重山の人頭税を考える!

とりあえず 八重山を中心とした人頭税について考えていきましょう!
ここで言う人頭税とは 一般人の常識での人頭税、学者さんが言う人頭税的税制の事です。

八重山の人頭税はいつから始まったのか?

「宮古・八重山に人頭税が新設されたのは薩摩侵攻後に薩摩藩への上納の為に1637 年に始まった説」
に個人的には賛同していなくて
1637 年説の根拠は、
1728 年頃編纂の「御財政」の記述で
1636 年の人口調査の翌年 1637 年から「頭懸之配当」をした旨記載されていることだと思われる。
しかしこれは、琉球全土でキリシタン禁止令の為宗門改めの調査で、それを人頭税のための準備作業とみるのは誤りであるとする意見がある


琉球全土でキリシタン禁止令の為宗門改めが行われた原因
wiki 八重山キリシタン事件 より引用
1624年に一隻のスペイン船が八重山諸島の石垣島に漂着したが、この船にはドミニコ会神父のファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダが乗っていた。石垣島の有力者で、宮良の頭職を務めて引退していた石垣永将は、遭難者たちを保護し、さらにキリスト教の教えを受けたと疑われ、琉球王府により流罪とされた。

『八重山年来記』によると、石垣永将は石垣島の富崎に漂着した南蛮船に牛数十頭を与えて自宅に遭難者らを数日間泊めたことを咎められ、「稽古物」という理由で死罪・家財没収に処され、子孫は流罪になったとされている

事件の影響
石垣永将が火刑に処せられた翌1636年、薩摩藩は琉球にも宗門改の実施を命じ、キリシタンでないと認められた住民には手札が渡された。その後、5年から10年の間隔で宗門改が実施されたが、その間も各間切・シマに宗旨の点検を報告させた。また、それに併せて琉球王府の宮古・八重山統治もより厳格化していった。


では 八重山の人頭税はいつから始まったのか?

繰り返しますが「宮古・八重山に人頭税が新設されたのは1637 年である説」に個人的には賛同していない
では いつから始まったのか?ですよね?

オヤケアカハチの乱について 歴史書「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」では 

八重山は毎年かかさず朝貢していたのに、3年間断った。加えて宮古を攻めようとした。だから琉球王府から攻めた。」(要約)とある。


琉球王府と八重山の関係は、オヤケアカハチの乱以前は、朝貢関係という緩やかなものであったが、オヤケアカハチの乱以降に、琉球の統治となり「税を定め貢を納めしむ」という関係になったと見られる

オヤ ケアカハチの乱(赤蜂征伐)は1500年であるので いわゆる人頭税が始まったのはそれ以降だろうと考えています。

琉球中山王府はオヤケアカハチの乱以降宮古八重山にも首里大屋子という役職をいた、地頭代の補佐役となる庶務部長的な仕事です
八重山には、古見大首里大屋子とか美良底首里大屋子が居て
1595 年の辞令書 で「頭懸(≒人頭税)」について書かれているので、遅くとも1595年に人頭税はあった。
っと考えます

もう少し絞れば
「球陽」によれば尚真王(在位1477年1527年)の時代
「三府及び三十六島に令して重ねて経界を正し、税を定め貢を納めしむ」

とある。

尚真王は、地方には大首里大屋子、首里大屋子、夫地頭などの役人を任命してその管理にあたらせ、 「三十六島」とは”多数の”という意味であろうから、王府の直接支配に入った宮古・八重山も 含まれると考える


よって
八重山(おそらく宮古も)で人頭税が始まったのは
1500年~1527年の間ではないだろうか?????

 琉球全土でキリシタン禁止令の為宗門改めの調査をもとに人口データがより正確になって1637 年「頭懸之配当」に繋がった事は否定しません。


八重山の人頭税はなぜ過酷であったのか??

薩摩藩による1609 年の慶長検地(八重山は1611年検地が行われている)により、琉球王府の石高は 89,086 石とされたが、1629 年宮古島の石高に 誤りがあったとして、約 6,000 石が減額され 83,085 石に修正された。 


1659年八重山でも喜屋武親方により沖縄本島と同様な地割制がとられ、人口増減にかかわらず定額としたため、人口が減少したり、台風等自然災被害があった場合には負担が過重になることとなった。

1722年、薩摩藩は琉球王府に対して検地が数十年行われていないから再検地をするように指示してきたが、王府はこれに 検地のために大勢の人員を派遣しては困窮の百姓に痛みを与えることなどを理由に延期するよう嘆願し 1737年~ 1750年(八重山の検地はいつのあのか?不明)に時間をかけて検地した。

1768年「八重山規模帳」によると
地方役人の不正行為などを戒める内容もあるが、
百姓については、
「上納米不足の時は他村に足させ、借りた方の村は次の年利息をつけて 返済するよう役人署名の証文を出させて、返済 が滞らないように指示せよ。」
「返済できない者 は、家財並びに身売りを以って弁償させよ。」
厳しい取立てを指示している




1771年に 石垣島南東沖約40Kmを震源とするマグニチュード7.4の地震が発生し八重山を明和の大津波が襲った!

石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島の津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
 また、津波に流された田畑は農作物が育たず、津波で生き残った人たちにさらなる試練(飢饉、疫病など)が襲いかかり、1771年からの100年間にこの地域の人口はさらに7000人以上も減少する。明和大津波、この悪夢が与えた直接間接的影響から解き放たれるまでに約100年を要するほどの大災害であり、地域住民の困窮は筆舌に尽くしがたいものがあったと推定される。
1771年・八重山地震・明和の大津波
https://www.bo-sai.co.jp/yaeyamajisintsunami.html


1772 年、明和の大津波の翌年 
王府から八重山在番宛に発出された「御手形」には、「年貢を生き残った人数に加重して割付けていて、 この先心配なので、百姓が進んで働くよう言い 渡すべし」とあった、、
税の軽減どころか、、締め付けだよね 琉球王府って鬼畜。 

人的被害と農地への被害は甚大であったのに
貢租は津波前(1737年~ 1750年)の検地を基準としていたし
喜屋武親方の地割制度改革後であったので貢租が減るどころか 人口が減少した事により一人あたりの貢租は増え 過酷な税制となった。 


更に
1776 年 八重山で死者 3,733 人の大飢饉が発生しているのだが、負担の軽減されない

1768 年の「与世山親方規 模帳」で
今まで 15 歳~50 歳までの者は障害者等も健常者と区別なく賦課 の基礎とされたため、障害者等を抱える者は過重な負担であったが、病人・障害者等は頭数 から除外された。
しかし その負担が他の村民百姓に分散されるだけであるとも言える



琉球処分・琉球併合(1872年)の16年前 
1856年 大津波から 85 年が経過してやっと、王府は  飢饉や災害が続いて人口もだいぶ減り、まともに年貢もできなくて百姓が極く難儀していると 聞くので、調査する
として「宮古島八重山島御検使」を派遣し、実情調査を行っている。
調査の結果 「負担軽減をしたから質素倹約に心掛けよ」というものであり、実際に何をどの程度軽減したのかは不明である。
人頭税は、明治にはいっても廃止されず、宮古八重山の百姓が苦しめられていた事を考えると 負担軽減の度合いは軽微なものであったのだろうと推測されます。



まとめ
Q:八重山や宮古の人頭税はなぜ過酷であったのか??
A:災害や飢饉などあったが 先島の百姓に対し差別的な扱いで税率を軽減しなかったから。











おまけ:石垣永将は本当にキリスト教を信仰してのか?
ルエダ神父はまず「薩摩の殿に所属している琉球の島」に向かい、1624年8月末か9月初めに石垣島に到着。ここで、港の管理を司っているこの地区(宮良、読み:みやら)の行政責任者である「宮良頭」を務めていた石垣永将と出会います。

石垣永将という人は(略)1611年頃に宮良頭職に抜擢されます。そこでルエダ神父の来島を迎えたのでした。神父が20日間あまり滞在していた間、おそらくこの神父から永将は洗礼を受けただろうと考えられます。
ルエダ神父と石垣永将の殉教
https://webmagazin-amor.jp/2018/07/09/tokushu21_2b/

おそらく???? 未確認ということか?