面白いサイトを発見した!
八重山独立運動のサイト - 暴虐なる琉球からの八重山独立を強く訴えます
https://yaima-dokuritsu.jimdofree.com/
八重山独立運動のサイト - 暴虐なる琉球からの八重山独立を強く訴えます
琉球人の大学教授の研究により、人頭税はなかったという主張もあるので、ファクトチェックしていただければありがたいです
これをが事実であるとすれば、琉球民族主義者がこれを利用し、抗弁できなくなり、勢いを削がれ足を掬われる可能性があります
『人頭税はなかった』 琉球・沖縄を学ぶ必読書
2015年09月27日10時42分 琉球新報
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-249506.html
人頭税がなかったんだとしたら、宮古島の若者らと中村十作は何を訴えたくてわざわざ国会に行ったんですか?
また石垣島の人頭税廃止100年記念事業の石碑は何なんですか?
記録では人頭税廃止の布告で多くの人々が泣いて喜んだとありますが、人頭税が無かったら、彼らは何を喜んだんですか?
そりゃ本島の人たちにしてみれば人頭税などなかったんだ!としたいでしょうが、現実に人頭税で苦しんだ離島には記憶と記録があります。
それを考えての発言でしょうか?
安室波平 (土曜日, 05 10月 2024 23:37)
人頭税がなかった!?
普通の県民が考えている”人頭税”とよばれるものは
専門家の定義(狭義の意味)では ”人頭税”と呼ばないという意味です。
ただし 普通の県民が考えている”人頭税”そのものが無かったという意味ではないようです。
公開日時2015年09月27日 10:42
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-249506.html
本書は、新たな歴史像を提示し、これまでの「人頭税」をめぐる議論に一石を投じている。議論の詳細については、実際に本書を読み解いていただきたいが、(略)近世琉球の王府が「間切・村」単位に租税を賦課していたこと、当時は夫役が中心であったために、先島地域のみならず、沖縄本島地域をも含めて「人頭税的」な租税制度ではあったが、決して「人頭税」では「なかった」ことなどを明らかにしている。
沖縄本島にも宮古八重山にも「人頭税的」なものはあった
定義の問題で「人頭税」と「人頭税的なもの」は別物だが、税制度に詳しくない一般人としては(いわゆる)人頭税はあった!
八重山の人頭税を考える!
八重山の人頭税はいつから始まったのか?
「宮古・八重山に人頭税が新設されたのは薩摩侵攻後に薩摩藩への上納の為に1637 年に始まった説」1636 年の人口調査の翌年 1637 年から「頭懸之配当」をした旨記載されていることだと思われる。
1624年に一隻のスペイン船が八重山諸島の石垣島に漂着したが、この船にはドミニコ会神父のファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダが乗っていた。石垣島の有力者で、宮良の頭職を務めて引退していた石垣永将は、遭難者たちを保護し、さらにキリスト教の教えを受けたと疑われ、琉球王府により流罪とされた。
『八重山年来記』によると、石垣永将は石垣島の富崎に漂着した南蛮船に牛数十頭を与えて自宅に遭難者らを数日間泊めたことを咎められ、「稽古物」という理由で死罪・家財没収に処され、子孫は流罪になったとされている
石垣永将が火刑に処せられた翌1636年、薩摩藩は琉球にも宗門改の実施を命じ、キリシタンでないと認められた住民には手札が渡された。その後、5年から10年の間隔で宗門改が実施されたが、その間も各間切・シマに宗旨の点検を報告させた。また、それに併せて琉球王府の宮古・八重山統治もより厳格化していった。
では 八重山の人頭税はいつから始まったのか?
「八重山は毎年かかさず朝貢していたのに、3年間断った。加えて宮古を攻めようとした。だから琉球王府から攻めた。」(要約)とある。
琉球王府と八重山の関係は、オヤケアカハチの乱以前は、朝貢関係という緩やかなものであったが、オヤケアカハチの乱以降に、琉球の統治となり「税を定め貢を納めしむ」という関係になったと見られる
1595 年の辞令書 で「頭懸(≒人頭税)」について書かれているので、遅くとも1595年に人頭税はあった。
もう少し絞れば
「三府及び三十六島に令して重ねて経界を正し、税を定め貢を納めしむ」
とある。
八重山の人頭税はなぜ過酷であったのか??
「上納米不足の時は他村に足させ、借りた方の村は次の年利息をつけて 返済するよう役人署名の証文を出させて、返済 が滞らないように指示せよ。」
「返済できない者 は、家財並びに身売りを以って弁償させよ。」
と厳しい取立てを指示している
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島の津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
また、津波に流された田畑は農作物が育たず、津波で生き残った人たちにさらなる試練(飢饉、疫病など)が襲いかかり、1771年からの100年間にこの地域の人口はさらに7000人以上も減少する。明和大津波、この悪夢が与えた直接間接的影響から解き放たれるまでに約100年を要するほどの大災害であり、地域住民の困窮は筆舌に尽くしがたいものがあったと推定される。1771年・八重山地震・明和の大津波https://www.bo-sai.co.jp/yaeyamajisintsunami.html
王府から八重山在番宛に発出された「御手形」には、「年貢を生き残った人数に加重して割付けていて、 この先心配なので、百姓が進んで働くよう言い 渡すべし」とあった、、
税の軽減どころか、、締め付けだよね 琉球王府って鬼畜。
貢租は津波前(1737年~ 1750年)の検地を基準としていたし
喜屋武親方の地割制度改革後であったので貢租が減るどころか 人口が減少した事により一人あたりの貢租は増え 過酷な税制となった。
1776 年 八重山で死者 3,733 人の大飢饉が発生しているのだが、負担の軽減されない
1768 年の「与世山親方規 模帳」で今まで 15 歳~50 歳までの者は障害者等も健常者と区別なく賦課 の基礎とされたため、障害者等を抱える者は過重な負担であったが、病人・障害者等は頭数 から除外された。しかし その負担が他の村民百姓に分散されるだけであるとも言える
1856年 大津波から 85 年が経過してやっと、王府は 飢饉や災害が続いて人口もだいぶ減り、まともに年貢もできなくて百姓が極く難儀していると 聞くので、調査する
A:災害や飢饉などあったが 先島の百姓に対し差別的な扱いで税率を軽減しなかったから。
ルエダ神父はまず「薩摩の殿に所属している琉球の島」に向かい、1624年8月末か9月初めに石垣島に到着。ここで、港の管理を司っているこの地区(宮良、読み:みやら)の行政責任者である「宮良頭」を務めていた石垣永将と出会います。
石垣永将という人は(略)1611年頃に宮良頭職に抜擢されます。そこでルエダ神父の来島を迎えたのでした。神父が20日間あまり滞在していた間、おそらくこの神父から永将は洗礼を受けただろうと考えられます。ルエダ神父と石垣永将の殉教https://webmagazin-amor.jp/2018/07/09/tokushu21_2b/
