方言札の事実
沖縄では厳しい教育(普通語励行・標準語励行)が頻繁に行われていましたが、方言札の使用を義務付ける条例や通達が出されることは一度もありませんでした。
→すべて教師の独断
私が言いたいことはこれで終わりです。
まぁ せっかくきたので 興味がある方、お暇な方は当ページを読んでください
この頁は二部構成で
前半は
言語罰札制度について ─沖縄の「方言札」を中心に
の個人的なまとめ
後半は 沖教職(沖教組)による標準語励行に伴う方言札についての個人な感想
言語罰札制度について ─沖縄の「方言札」を中心に─ 井谷 泰彦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jies/18/0/18_54/_pdf
を簡単にまとめてみた。じっくり読みたい方は 引用元へどうぞ!井谷 泰彦
1955年京都市に生まれる。元学校司書。現在は、大学非常勤講師の他、生涯学習センターにて社会教育主事の仕事を請け負っている。学位論文は『南島村内法の罰札制度に見る沖縄の習俗としての社会教育』(早稲田大学)で、2018年4月に学位取得(教育学博士)。立命館大学出身(1979年)、図書館短期大学別科修了。2001年、46歳で在職しながら、早稲田大学大学院社会科学研究科修士課程へ入学。2004年3月修了。2009年4月、早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程入学、2018年修了。沖縄の社会教育史と民俗学との境界領域を研究。猫と旅を愛する。
1.方言札の概要と特徴
「方言札」とは、20世紀初頭から1970年代半ばにかけて、主に沖縄県や奄美諸島の学校教育や社会教育の場で、方言を使った生徒に与えられた罰則札のことです。東北地方でも使用されたという話もありますが、沖縄・奄美での普及とは比較になりません。沖縄は「普通語」という言葉が生まれ、全国に広まるほど会話教育のモデルになった時期もありました。本土の「方言札」も沖縄から伝わった可能性が高いと考えられています。
方言札の2つの性格
井谷は方言札に以下の2つの基本的な性格があると指摘しています。
慣習的性格(非公式性): 方言札の使用は、条例や通達で定められたものではなく、あくまで慣習的に行われていました。公式な記録が少なく、札の形状や導入時期、使用方法なども学校や地域によって様々でした。体罰を伴うこともあれば、遊びのような形で使われることもありましたが、共通していたのは、方言を話した者が札を首から下げ、次の違反者が出るまで持ち続けるという点でした。この非公式性のため、方言札の実態は把握しにくく、戦前の沖縄の知識人である伊波普猷でさえ、大正期には方言札を「過去の遺物」として扱っていましたが、実際にはそれ以降も使用が続いていました。
特に戦後の使用は教員の個人的判断によるものが多く、その存在はさらに分かりづらくなりました。草の根的性格(半ば自然発生的): 方言札の起源については諸説ありますが、筆者は、為政者の強制的な同化教育だけでなく、沖縄の人々が差別を克服し、経済生活のために本土の言葉を学ぶ強い動機を持っていたからこそ、言語罰札が習俗として定着したと考えています。近代教育が軽視されていた時代には、政府が強制的な言語教育を行っても受け入れられませんでしたが、日清戦争以降、状況は変化しました。
2.南島村内法と罰札制度の要約
方言札の「慣習的」かつ「草の根的」な性格は、沖縄に古くから存在する「南島村内法」という地域社会の掟に根ざしていると筆者は指摘しています。多くの識者が方言札の罰札制度がこの村内法を応用したものであると指摘しており、筆者も方言札の本質を南島村内法そのものに見ていると述べています。
南島村内法の概要
かつての琉球王国の法体系は、王府法と、村や集落ごとに定められた「南島村内法」の3段階に分かれていました。王府法が主に刑法犯を裁いたのに対し、南島村内法は民事を扱っており、各間切(行政単位)や集落によって内容が異なりました。 18世紀には間切の役人と各集落が協力して執行するようになり、1885年には成文化もされました。
南島村内法における制裁には、罰金(科銭)、罰米(科米)、植林(科松)、さらし者にする(日晒)、村からの追放(所払い)、鞭打ち(科鞭)などがありました。身体への危害を伴う罰は明治中期には禁止されましたが、科銭や科米といった金銭的罰則は、明治政府の旧慣温存政策により残り続け、アメリカ軍占領下の戦後まで存続しました。
罰札制度の共通性
この科銭や科米などを執行するために利用されたのが「罰札制度」です。罰札を持たされた者は、次の違反者が見つかるまで、金銭や玄米を集落に納める義務がありました。これは、方言札が「次の違反者が現れるまで札を持ち続けなければならない」というシステムと全く同じであり、沖縄社会の罰札制度の共通した特性を示しています。
方言札と南島村内法の関係性
集落ごとに異なる村内法には、「鶏札」(鶏が公有地に入った場合の罰金)、「山札」(山で生木を伐採した場合の罰金)、「ウーギ札」(サトウキビを食べた場合の罰金)などが広く見られます。一部の村内法には近代学校教育に関連する項目(例えば、学校をサボった児童の家に罰金を課す規定)も存在し、方言札を含む罰札制度が、単なる学校教育システムの中で完結するものではないことを示しています。方言札は、学校だけでなく地域社会でも使用例があり、沖縄の言語問題が県民全体のアイデンティティに関わる問題であったことを物語っています。
方言札の実態と性格
方言札制度が、子どもたちに恐怖を与えた側面があることは否定できませんが、実際の使用例を見ると、それだけではない側面も存在しました。例えば、遊びの延長で札を渡したり、腕白な子が札を渡されることを回避したりといった事例も報告されています。
筆者は、方言札は近代的な教育道具であるにもかかわらず、その運用は「生徒から生徒へと、恣意性の強い札の回し方」であり、近代的な管理教育とはかけ離れていると指摘します。このことから、方言札は南島村内法という古い慣習から生まれた、前近代の痕跡を残す「習俗」であったと結論づけています。
3.沖縄の言語問題と県民のアイデンティティ
方言札が学術的に検証されるようになったのは、近藤健一郎の研究「近代沖縄における方言札」が最初です。それまで方言札は、実際の使用状況とは関係なく、子どもたちを抑圧する象徴として語られてきました。
方言札は、単なる物であり、時代や地域によって使用方法が大きく異なります。そのため、方言札に過度な象徴的意味を持たせるべきではないと筆者は指摘します。
方言札を用いた言語教育の背景には、その時代の言語教育政策、政治状況、そしてそれに規定された沖縄県民のアイデンティティが存在しており、これらが方言札のあり方や使用方法を決定していました。
方言札を用いた会話教育の3段階
方言札を用いた会話教育の歴史は、その性格から以下の3段階に分けられます。
普通語時代(1903年~1936年):
方言札が出現した時期であり、県民の間には言語や風俗の違いによる差別からの脱却を目指す学習意欲がありました。
しかし、日本語会話教育は徹底されておらず、沖縄の人々は自分たちの言語や風俗を捨てることに抵抗感も持っていました。詩人の山之口貘が方言札を使った教育に反抗したのもこの時期です。
教員の日本語会話能力も不確かな場合が多く、本土出身の教員を招いた「談話会」が各地で開催されました。
標準語励行期(1937年~1945年):
この時期は、県の学務部を中心に国民総動員運動の一環として「標準語励行運動」が展開され、地域や家庭をも巻き込んだ大規模な社会運動となりました。
1940年には柳宗悦ら本土の知識人によって方言札が「発見」され、沖縄方言論争のきっかけとなり、方言札に魔的な象徴的意味が付与される原因となりました。
しかし、差別を恐れる多くの県民は、基本的に県の政策を支持しました。この時期には、学校長が方言使用者の人数などを県に報告するようになり、ごくわずかですが方言札の使用を決定した公式文書も残されています。
戦後(1945年以降):
戦後も標準語励行はホームルームの「週訓」として残りましたが、組織的な運動は影を潜め、方言札の使用は基本的に個々の教員の判断に委ねられました。これにより、方言札本来の非公式的・慣習的な性格がより強まりました。
戦後の標準語励行は、「祖国復帰」という政治的動機と、本土との学力格差解消という教育的動機を持っていました。
私の個人的感想
結論
方言衰退は主に沖教組による強烈な標準語教育の反作用。
しかし、県民の協力があった県民の総意でもある。
誰からも指示されたものでもない 沖縄県民の自己決定権を行使した結果だ!
沖縄における方言教育の変遷と方言札
沖縄での方言札をめぐる状況は、戦前と戦後でその性格や影響が大きく異なりました。明治期~昭和初期(戦前)の普通語教育
この時期の普通語教育においても、方言札の使用は、明治政府や日本国による直接的な強制ではなく、教員らが善意や効率を求めて独自に行ったも
その根底には、沖縄に古くから存在する「罰札制度」が関係していました。
当時の普通語教育における方言禁止は、基本的には学校内(あるいは授業中)に限定されていました。
明治26年に沖縄を訪れた言語学者バジル・ホール・チェンバレンも
「クラスが終了するや否や、再び琉球語(沖縄方言)は、運動場や家庭を支配することとなる」
と記しており、授業が終われば沖縄方言の使用が許されていたことがわかります。
このことから、戦前の普通語教育は成果を上げたものの、方言の衰退とはならなかった
なぜなら、戦後、教職員によって方言札が復活するほど、方言が依然として広く常用されていたからです。
戦後の標準語教育:主に琉球政府時代(復帰前)
小熊英二氏の著書にもあるように、日本復帰を目指す教職員会(後の教職員組合、沖教組)は、その教育活動を通じて児童に「日本人」としての自覚を育成するため、標準語(共通語)の励行を強烈に進めることになります。
この時期、戦前と同じく教師たちの独断によって、1950年頃から方言札が復活します。
これは琉球政府の条例や通達に基づくものではなく、当然ながら本土復帰前であるため日本政府も無関係でした。
ここで注目すべきは、戦前の方言禁止が学校内だけだったのに対し、戦後の方言禁止は地域社会をも巻き込むようになった点です。
小学校一年生になってはじめて日本語に出会い 日本語を使うのは学校の授業だけで、休み時間やいえに帰ると琉球語が中心 小学校三、四年生の頃から、「標準語励行運動」が盛んになり、そして校内に「方言札」が出廻るようになりました。
それがたび重なると、放課後のこされて竹ぼうきの柄がバラバラになるまでおしりを叩かれることもありました。 しかも、その方言札が部落や地域にまで出廻るようになりました。おかげで、家に帰っても安心し琉球語が使えません。
(高良勉『発言・沖縄の戦後五〇年』、ひるぎ社、1995年、ll4頁、19頁。より抜粋)
このような経緯により、戦後の標準語教育は、沖縄方言が衰退する直接的な要因の一つとなったと考えられます。
令和2年度 しまくとぅば県民意識調査 報告書
簡易的にここでは しまくとぅば≒方言とする
https://www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/011/779/p19-43_2020simakutolubaisikityousa.pdf
「しまくとぅば」の使用頻度より
「あまり使わない」「まったく使わない」と回答した理由
60代 男性 浦添市
私の時代(中学1年名護中)は島ことばを話すと先生が黒板の前、正座をさせみんなのわらいものにされた時代です(小学ま で島言葉を話していた)
60代 男性 宜野湾市
小学校時代方言を使用しないようにされて方言札などもあり。祖父や祖母との会話も方言は使用しなかった
60代 女性 那覇市
学校で方言は禁止だったので、しゃべる機会がなくなった。共通語では言い表せないニュアンスだけ使う
70歳以上 女性 宜野湾市
私たち世代は小学校の標準語施行で方言が使用禁止されていた。家庭内では全く方言は使わなかった。
70歳以上 女性 中城村
共通語を使いましょうという時代の中で生きてきましたから。
70歳以上 女性 うるま市
小学生の時、学校で家庭でも「標準語を使いましょう」と教えられてからは、両親も標準語を使うようになり、まったく使わなくなった ため、なんだか気はずかしくて方言は使えるのですが使っていません
上記のように
県民に方言を話すことが恥ずかしい、劣っているという意識を植え付けた
(それは沖縄以外の地方県でも同じである)
メディアの責任は???
方言が消滅の危機に瀕している要因として、学校教育における標準語励行だけでなく、テレビなどのメディアの影響も大きかったと考えられます。
子どもたちが毎日、標準語で放送されるアニメに夢中になったことは、方言離れを加速させる一因となりました。
もしこの時、方言に吹き替えたアニメが放送されていれば、方言の継承に大きく貢献できたはずです。
メディアは方言衰退を嘆くのであれば
他者に全ての責任を押し付けるのではなく、自らが標準語の番組を一方的に提供し続けたことについて、真摯に反省すべきだと言えるでしょう。
方言札に関するデマ
方言札は明治政府や日本国による強制というのは完全に否定できる
方言札は条例や通達に基づかない非公式な慣習(教師の独断)であった
最後に
方言札の研究は、単に過去の出来事を明らかにするだけでなく、沖縄の言語教育の歴史を深く総括し、沖縄のアイデンティティ形成の過程を解き明かす上で、極めて重要なテーマとなっています。
この研究を通じて、沖縄の教育界は、過去の過ちを他者の責任にすることなく、真摯に向き合い、深く反省する必要があります。方言札がもたらした負の側面、すなわち地域固有の言葉や文化が抑圧され、自己否定感を助長した歴史を直視することで、私たちは言語と文化の多様性が持つ本質的な価値を再認識できるでしょう。
*バジル・ホ-ル・チャンバレン
明治28年に「琉 球語文典並びに辞典に関する試案」を出版してる
初級沖縄語 単行本 花薗 悟 (著), 国吉朝政 (著), 西岡 敏 (監修), 仲原 穣 (監修)
沖縄語の入門[音声DL版]:たのしいウチナーグチ 単行本(ソフトカバー)西岡 敏 (著), 仲原 穣 (著), 伊狩 典子 (その他), 中島 由美 (その他)
琉球のことばの書き方 ―琉球諸語統一的表記法 単行本 小川晋史
琉球諸語の保持を目指して (シリーズ多文化・多言語主義の現在) 単行本 下地 理則 (編集), パトリック ハインリッヒ (編集)

