https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1823219
この記事の要旨は
1973年6月の「あれから1年 沖縄フォーク大集会」は、沖縄復帰の実態を問う場として開かれたが、嘉手苅林昌のステージは大きく荒れた。特に10曲目頃から、一部の日本人観客が「帰れ」「もう終われ」といったシュプレヒコールを浴びせたことが、当時東京にいた写真家・大城弘明の手紙にも記録されている。背景には、沖縄民謡やうちなーぐちが理解されず、異質なものとして攻撃に転じた観客の存在があった。そうした中で大城は、対抗するように懸命に拍手を送り続けた。
混乱する会場で、饒辺愛子の呼びかけに応じて観客と演者がステージに上がり、カチャーシーを踊り始めると、衝突寸前だった空気は一変。島唄と踊りの力によって場は和らぎ、対立は回避された。関係者は、理解せずに非難する観客の姿勢に疑問を示しつつ、カチャーシーの持つ力を強く印象づけた出来事として振り返っている。
要は、、
沖縄民謡やうちなーぐちが理解されず、異質なものとして一部の日本人観客が攻撃としているが、、、
果たしてそうだろうか??
竹中労と沖縄 ――「被害者」というレッテルを剥ぎ取った漂泊の精神
竹中労という男を語る際、「反骨のジャーナリスト」「ルポライター」といった既存の肩書きは、彼の本質を捉えきれない。彼は、国家や組織といった強固なシステムに抗い続けた「漂泊の精神」の持ち主であった。その竹中が、生涯において最も深く、そして激しくコミットした対象の一つが「沖縄」である。
竹中が沖縄に注いだ眼差しは、当時の本土の知識人や政治活動家たちが抱いていた、ある種の「善意」とは根底から異なっていた。本稿では、竹中労と沖縄の関わりを通じ、彼がいかにして沖縄を「政治の道具」から解放しようとしたかを考察する。
1. 「内なる帝国主義」への宣戦布告
1972年、沖縄の本土復帰。この歴史的転換点において、竹中は『琉球共和国』を上梓する。この著作は、単なる沖縄ルポではない。それは、沖縄を「基地に苦しむ可哀想な島」としてのみ捉え、自分たちの反戦運動や政治闘争のシンボルとして消費しようとする本土の左翼・知識人に対する痛烈な告発であった。
竹中は、沖縄を政治的な被害者という枠に閉じ込める本土側の視線を「内なる帝国主義」と呼び、指弾した。彼にとって沖縄は、救済されるべき対象ではなく、日本という国家が失ってしまった「自立した個」と「豊かな生活文化」を保持し続ける、眩いばかりの「他者」であった。竹中の沖縄論は、常に「本土(日本)がいかに沖縄を搾取し、都合よく定義しているか」という自己批判に貫かれていたのである。
2. 1973年、日比谷野音の決闘
竹中労と沖縄の関わりを象徴する最大の事件は、1973年8月15日に日比谷野外音楽堂で開催された「琉球フェスティバル」である。竹中がプロデュースしたこのステージには、嘉手苅林昌をはじめとする沖縄民謡の巨星たちが顔を揃えた。
そこで起きたのは、音楽の調和ではなく「罵声」であった。「政治を語れ」「基地の現状を訴えろ」と叫ぶ本土の活動家たちに対し、嘉手苅氏はただ島唄を歌い続けた。その姿に失望した観客からヤジが飛んだとき、竹中はマイクを握り、客席をこう一喝した。
「あんたらに沖縄を聴く資格はない」
この言葉に、竹中の思想のすべてが凝縮されている。彼は、音楽を政治の手段に貶めることを許さなかった。沖縄の唄者が歌う色恋や哀歓、ユーモアこそが、過酷な歴史を生き抜いてきた沖縄の「生活者の誇り」であり、それこそが真の抵抗であると確信していたからである。
3. 芸能という名の革命
竹中にとっての「革命」とは、党派的な政治権力の奪取ではなかった。それは、国家の管理から外れた場所で、人々が自身の生活を歌い、踊り、謳歌する「芸能」の力の中にあった。
彼は嘉手苅林昌を「孤高の芸術家」としてだけでなく、漂泊の精神を体現する「芸人」として深く愛した。嘉手苅氏が罵声の中でカチャーシーを奏で、最後には観客を踊らせてしまった光景に、竹中は政治的思想が逆立ちしても敵わない「生(せい)」の勝利を見たのである。
竹中はその後も、沖縄の音源を精力的にレコード化し、ライナーノーツを通じて本土の偏狭な沖縄観を撃ち続けた。彼が残した膨大な記録は、単なる文化保存ではない。それは、沖縄を「被害者」というレッテルから解放し、その強靭な主体性を世に知らしめるための「闘争」の記録であった。
結論:現代に響く竹中の「警告」
没後、竹中労が残したメッセージは、現代の私たちに一層重く響く。今なお、沖縄を自らの政治的正しさを証明するための「道具」として扱う言説は絶えない。沖縄の声を聞いているふりをしながら、自分たちの望む「怒れる沖縄」という答えを強要する。その「善意の暴力」を、竹中であれば間違いなく「内なる帝国主義」と呼び、再び一喝しただろう。
竹中労が沖縄に見出したのは、国家やイデオロギーといった虚妄に依存せず、三線一本で世界と対峙する「個の覚悟」であった。彼が沖縄を愛した理由は、沖縄が「可哀想」だったからではない。沖縄が、どこまでも「自由」だったからである。
私たちは、嘉手苅林昌の三線と左翼の声が響いたあの日比谷の夜を、何度でも思い返さなければならない。そこには、他者に定義されることを拒絶し、己の生活と誇りを守り抜くという、人間が自由であるための根源的な教訓が刻まれている。
主な参考資料:
- 竹中労『琉球共和国』筑摩書房(1972年)
- 竹中労『風狂に死す』三一書房(1991年)
- Wikipedia「竹中労」
- その他