素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」第22章 一九六〇年代の方言札―戦後沖縄教育と復帰運動を読んでの感想
とある出会いがきっかけで、 小熊英二 著「〈日本人〉の境界」を読んでます。
本記事は、
素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」第2章 沖縄教育と「日本人」を読んだ感想(1)の続きで その2の予定でしたが、、急遽変更し
https://news.yahoo.co.jp/articles/62a962f1bfb5b477f515e2177b78bac2e0c007d4
2/2(金) 6:26配信
1月18日に放送された「櫻井・有吉THE夜会」(TBS系)で、女優、二階堂ふみに「方言禁止」というルールで記者会見をさせるという趣向のコーナーを放送したところ、「沖縄差別」につながるという批判が一部で起きることとなった。
(略)
茂木氏の主張は、まとめると以下のようなことだ。 「沖縄では国家に方言を禁止された歴史がある。差別を受けてきた。この経緯を考えれば、番組の趣向は一発アウト。沖縄に限らず、方言をこのように扱うことは現代の価値観から考えても許されない。番組の関係者にはリテラシーが足りない」
>沖縄では国家に方言を禁止された歴史がある。差別を受けてきた。
これって真実なのでしょうか??
小熊の<日本人>の境界線を通じて考えてみましょう!
読み進めて関連性がかなり強いと思われる章は追加する場合があります
第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学
(1)(当blogの記事) (2)準備中
第15章 オリエンタリズムの屈折―柳宗悦と沖縄言語論争
第18章 境界上の島々―「外国」になった沖縄
第22章 一九六〇年の方言札-戦後沖縄教育と復帰運動
尚 この章は、小熊の論調が控えめ、、というか事実を羅列するだけにも見える。
ただ、ところどころに皮肉ともういえる表現がチラホラ
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まずは 章冒頭を引用します
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”この章では この沖縄教職員会が行った、「国民教育」運動を取り上げる。(略)「日本人」の自覚を育成するものとして、本土の日教組が六〇年代から開始したものだった”
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もうこの時点で沖縄県民である 沖縄教職員会が「国民教育」運動の一環として方言衰退キャンペーンを張った事が推測される。
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復興活動としての復帰
軍国主義復活を危惧した米軍政府当局は教育(教師)に不信感を持っていたが
”米軍は「軍事的訓練及び日本謳歌の教育」を厳禁する事を打ち出したうえで教育の再開を許した”
”日本的な教材が禁止される一方、琉球アイデンティティの重視やアメリカとの国際親善を説く教育が望ましいものとされ、沖縄語での教科書作成も検討されたが、そもそも米軍の初等教育への熱意はうすく、こうした教育方針も不十分にしか実現されなかった”
日本の教科書は輸入禁止であったが それに代わる沖縄の教科書をつくる熱意は米軍に無く、、結局1948年本土の教科書を利用を許可
米軍の目的は親米的な現地エリート育成であり少数の教育機関を建設する事
初等教育は荒廃していた
エリート養成の為に1951年琉球大学が開校する。
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ここで 沖縄教職員初代会長 屋良朝苗氏(頁頭写真の人物)が登場する
台湾帰りの屋良は、復帰派の平良辰雄沖縄群島知事に抜擢され文教部長に抜擢される。
1950年に本土見学し本土が予想以上に復興している事に驚き また教員の本土との給与格差に愕然とする。「本土並み」の教育環境整備に躍起になる。
ここで小熊的な皮肉といえる記述をする
教員らの
”大きな関心事だったのが、恩給の支給だった。前述した教育指導講習による視察団の帰郷座談会でも、日本政府の行政権のもとへ復帰しない限り、恩給受け取りが困難であることが注目された”
”こうした状況のなかで一九五二年一月には全島校長会議は日本復帰要求を決議した。”
当時の教職員の皆さんが小熊のこの文章を読んだら激怒しそうな、文章の流れだね(笑)
屋良は1952年に補足した沖縄教職員会の初代会長となり これ以降 屋良は教職員会を率いて復帰運動のリーダーとなる。
尚 屋良は教育環境改善の為「米国と協力し自由主義的イデオロギーを堅持」すると述べている(「戦後資料 沖縄」73・74P)
1958年琉球政府がいわゆる教育四法を公布する ここで注目すべきは、教育基本法の前文に
「日本国民として」の教育
という一説を挿入した事である!!
これは琉球政府において沖縄人が日本人であるという事を明文化した (たぶん)唯一の法令である
占領期沖縄の教育行政制度に関する一考察―教育権の独立に着目して―
梅本大介
https://core.ac.uk/download/pdf/144440158.pdf
琉球政府が「教育権の独立」を図る教育四法案を提出してきたので,その動きに対抗する形で,米軍は新たに 1957 年に布令「教育法」を公布した。
しかし,この沖縄住民の自治権拡大を否定するかのような布令の出し方は沖縄住民の感情を刺激した。
最終的に米軍は,沖縄住民に対する政治的配慮から教育四法の成立を承諾させられることになる。(略)
上沼は「平和と民主主義擁護の二つの理念は,祖国復帰のための民族主義(ナショナリズム)運動の,依然として根強い支柱となっているのである。
そして,このようなナショナリズムを鋳造する上に重要な役割を演じたものが,戦後の一連の護郷的抵抗運動であり,なかんずく,そこから止揚された教育民立法」(33)
であると評している。
米国が構築した戦後占領体制を超克する改革が,教育四法であったと言えるだろう。
引用文中の上沼とは上沼八郎(かみぬま はちろう)の事 筆名・伊那竜平
長野県生まれ。名古屋大学教育学部卒、1956年同大学院教育学研究科博士課程満期退学、沖縄国際大学助教授 実践女子大学助教授、奈良教育大学教授、1990年高千穂商科大学教授など歴任
方言札の復活
いよいよ今回のテーマについての言及が始まります・
いつから方言札が復活したのか?
”地域によっては一九四五~四八年ごろから、すでに戦前とおなじく「方言札」が小学校で復活していたようだが、それが沖縄全体に広がったのは、一九五〇年前後のことのようである。”
”一九五一年四月、講和条約会議に向けて復帰署名運動が行われていたさなかの第二回全島校長会では、はやくも「標準語の励行を徹底」することが「本年度重点目標」の一つに掲げられた”
ここで驚くことに 「小指の痛みは..」で有名なあの喜屋武真栄氏がこんなこんな事を言っていたようだ
”文部部長の喜屋武真栄が「われわれが教育している子供たちはまさしく日本人であり、日本の青少年である事に相違ない」と述べ(略)一九五七年の第三次教研集会では、本土から招かれた東大総長の矢内原忠雄が講演を行うとともに、共通語の奨励問題が大きくとりあげられたのである”
引用だとわかりにくいので箇条書きとする
全生活で共通語を使用している割合(中学生)
・那覇 13%
・名護 0.3% (多用している10%)
(逆に言えばこのころまで 沖縄の方言は健在であった事がわかる。明治に方言札や禁止があまり効果が無かった証拠でもある)
方言札の使用も教研集会で報告されていてます。
"「方言使用者は掃除をさせる」「方言をした人は皆の前に出す」などと並んで方言札が挙げられていた。とはいえ、評判のよい制度ではなかった事が認識されていても、なお共通語奨励の為使用されていた事がうかかえる"
まぁ ここまで読めば
共通語奨励のために方言札を使用し方言を抑圧したのは、沖縄教職員会であり、それを支えたのは琉球政府、そして沖縄の人々である事が理解できはずである!
戦後において 日本国が沖縄方言を禁止した事は一度もないという事実を知らない 脳科学者の茂木氏には幻滅する
また 一部の左派リベラルにおいても「日本国が沖縄の方言を奪った」とするような論調があるが、それも正しくない事がわかって頂けたものと考えます。
・・
戦前については どうなのか? 日本国が沖縄の方言を禁止の為に「方言札」を実施したと考える人もいるだろう
その点について
本シリーズ「素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」を読んだ感想」の本筋から離れるので、
沖縄ブローガー あいろむ氏が
俺が調子に乗って琉球・沖縄の歴史を語るブログ の
あいろむノート – 方言札(1)から
「回想 吉田嗣延」よりに収められていた方言札に関する外間先生の証言です
沖縄で方言札が初めて出てくるのは明治40年(1907)頃です。標準語を使うことに最も熱心だったのは県立中学校(後の沖縄県立第一中学校→首里高校)の生徒たちなんです。それは時代に目覚めようとする若い世代の自主的な社会宣言なんです。そこに、罰則制度の方言札が使用される。しかし、逆に、自主的に方言禁止を誓った中学生たちに対して、学校側が学校教育の手段として方言札を押しつける時代が大正年間に出てくる。
この記事
第22章 一九六〇年代の方言札―戦後沖縄教育と復帰運動を読んでの感想(2)に続く予定ですが、、
その前に