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素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」第2章 沖縄教育と「日本人」を読んだ感想

2023年8月5日  2024年2月5日 

 とある出会いがきっかけで、  小熊英二 著「〈日本人〉の境界」を読んでます。

本記事は、

素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」を読んでみた。概要と 第1章琉球処分編の感想
の続きです。



「<日本人>の境界」の目次

「<日本人>の境界」で、今のところ当blogで扱う予定の章のみ抜粋します
読み進めて関連性がかなり強いと思われる章は追加する場合があります



第1章 琉球処分―「日本人」への編入 (当blogでの感想記事はこちら

第2章 沖縄教育と「日本人」化―同化教育の論理 (当記事)
旧慣維持と忠誠心育成/「文明化」と「日本化」/歴史観の改造

第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学(当blogの記事)

第15章 オリエンタリズムの屈折―柳宗悦と沖縄言語論争

第18章 境界上の島々―「外国」になった沖縄

第19章 独立論から復帰論へ―敗戦直後の沖縄帰属論争

第20章 「祖国日本」の意味―一九五〇年代の復帰運動

第21章 革新ナショナリズムの思想―戦後知識人の「日本人」像と沖縄

第22章 一九六〇年代の方言札―戦後沖縄教育と復帰運動



第2章 沖縄教育と「日本人」化―同化教育の論理 の感想

注 意
章単位で感想を書くと 各章の繋がりや全体の流れを無視してしまう事があります。
章を読み進めて関連する内容があれば、随時追記します。
読了後まとめて感想を書きます。
画像はクリックすると拡大します。

では 感想文をかいてみます。

旧慣維持と忠誠心育成

明治の日本は、日本国民画一化(標準化・平準化)を目指していた。同じ国民でありながら地域によって差異が生まれないようにする平等化とも言える。
沖縄県民の日本人化とは、他県民なみの教育レベルや生活レベルへの向上を目標として
日本国民画一化の一環であったと考えます。
小熊のいう「日本人化」は「皇民化」と同義なのかもしれない
その点は別記事にしますが、とりあえず本blog記事中で「日本人化」という表記をするが、その意味は読み手の貴方の判断にまかせます。




引用p35
”  明治政府はいわゆる旧慣温存政策をとった。 ”

”  琉球王国時代の税制は、農民にとって大きな負担であり、あまりの貧窮ぶりをみた二代目県令の上杉茂憲は、おなじく「天子の赤子」であるはずの沖縄人が「旧法」に苦しめられているとして改革を上伸したが、これは、容れられなかった  ”

旧慣温存政策とは、琉球藩に移行また、琉球処分に反対し抵抗する琉球士族を懐柔するため 税制等を琉球国時代と同じとした政策であり これにより
 ”農民にとって大きな負担であり、あまりの貧窮ぶり
となっていた。

旧慣政策で有名なものは 人頭税で前記の”あまりの貧窮ぶり”の元凶である。
人頭税は、1903年(明治36年)に廃止され、日本本土と同様の地租に切り替えられた。

私は、先祖代々沖縄県民で両親とも先島の百姓家系であり 同じく先島出身百姓家系の妻を持つ身としては、ご先祖様の”あまりの貧窮ぶり”を救ってくれたのは、日本であると思います。
明治政府は、旧士族に遠慮せず武力を持ってしても琉球藩から沖縄県になった時点で、旧士族を排除し旧慣を廃止すべきであったと思います。

旧慣温存政策は、当時混乱した日本国内の状況や外交(対清)の影響である事は否定しないが、、沖縄県民を無視し既得権益を手放したくない琉球士族(頑固党-亀川党・黒党 =上級士族)にはあきれるばかりだ。

明治政府は 琉球国の名残をのこす旧慣温存と小熊のいう日本人化という相反する政策を進める。


沖縄の日本人化の基本は教育であった。


p35
”(小学校を)わずか三年のうちに五一校が整備された”

明治政府は教育は熱心に推進した。
1879年明治12年)の沖縄県設置から3年で 小学校が51校整備された。
もう少し詳しくみてみると1881年19校 1882年51校と急増している 
(後述する 平等学校・村学校・筆算稽古所を除く)
1888年には66校となっている
1888年時点で就学率は 沖縄県7.7%(就学者 男子4787人女子736人)全国47.4%
ちなみに沖縄で就学率が低かった理由として
一般論だが
・首里那覇で士族が多く新しい学校教育を軽侮した
・農村では学問は士族がするものだという思い込み
・女子の就学者が極端に少ないのは封建的女性観の存続

おまけ補足
1881年現宜野湾市の神宮寺内にできた中頭小学校は,中頭地区に11の小学校ができたので廃校になる短命小学校であるがそこで担当した教員が野村成泰氏である、
野村が「琉球教育」第97号に寄稿したものによると 
師範学校に進学した者は21名でそのうち20名が平民だったと記している。

士族が非協力的であった事 平民の学習欲がよくわかる寄稿ですね。

ちなみに就学率が男子45%を超えたのは 日清戦争で日本が勝利した以降である
ある意味わかりやすい。
引用p35~p36
” 当時はたの府県では初等教育でも授業料が徴収されていたにもかかわらず、沖縄ではその逆に、就学者に補助金や文房具などら支給されたのである”

これは知らなかった! 
ちなみに、教員養成の師範学校生に1880年から弁当代と称し1日5銭支給されている。
優遇された理由は
引用p35
”「土民」は「字を知る者少な」いうえ「言語通じさせる」ために”

「土民」が「字を知る者少な」いのは当然で、
琉球において教育を受けられたのは 士族の男子のみであり、他県にあるような庶民百姓も通えるいわゆる寺子屋の類は無かったからである。

内務省の河原田盛美は那覇にある村学校を視察し士族男子しか就学しない琉球従来の学校制度に対して批判的であった。
しかし 鍋島県政は1879年に琉球処分直後閉鎖されていた琉球士族のみが通う平等学校・村学校・筆算稽古所の旧学校を再開させた。
理由は、沖縄県民が新しい学校へ就学するようする誘い水の役目を期待したようだ。
(後に旧学校を改良して小学校に移行することも県は考えていた)


「言語通じさせる」についても
沖縄は琉球国の極端な移動制限の影響で各地で方言が大きく違う、島が違えば方言が大きく違うのは当然であり、ひと山越えると方言は違うのである
しいて言えば琉球の共通語であろう 士族の使う首里方言は各地に広まっていない。
(明治以降 旧慣廃止後に職を失った芸能を担当していた士族が、沖縄芝居を立ち上げ各地を巡業することにより 庶民に広まる)


「文明化」と「日本化」

引用p41 
”沖縄在来の風習のうちで、特に野蛮とみなされたのは男性の結髪と女性の入墨であり”

当時の日本としては、
沖縄では結髪、他県では丁髷、良くない風俗だとしてどちらも「ざんばら髪」になった
沖縄女性の入墨(ハジチ)も他県の刺青も禁止となった。

こういう「沖縄では、〇〇が禁止された」という表現をする場合に他県ではどうだったのか?を書かない事が多い
「沖縄だけ? それって、、」
と読者に誤解を与えたいのだろうか?
*ハジチに関しては当blogでも記事にしてます
 興味があれば読んで下さい
入れ墨禁止や 結髪・丁髷禁止は「日本化」ではなく「欧米化」「文明化」ですね。

続いて  p42
衛生面(体位向上・消毒浴槽への入浴・衣服の洗濯)
勤勉思想
貯蓄心
進取の気性
など近代労働論理の注入も重点に加えられていたとある
今では普通の常識的で必要とされる事柄の習得でさえ、小熊氏によれば、国防上・日本人化・皇民化の為と解説される。

p42
”沖縄人を近代国民国家の構成員に改造してゆくうえで
必要なものであった”
と小熊は書いてある。

何をするにも 明治政府の悪だくみが隠されていたようだ(笑)
沖縄県民は文明化してはいけないのだろうか?


結髪ついて
伊波普猷によれば, 1891年頃までは「県人は殆ど全部結髪で東京遊学生の大多数,中学部範の生徒,官公吏の一部,官庁の小使,それから狂人が断髪をして居た」という。
狂人って表現は強烈だな。

1908年 9月の『沖縄教育』第31号によると「沖縄人男子のなかでまず教員,生徒あるいは官吏が断髪した」

師範学校,尋常中学校の生徒が断髪したあと,琉球の中心地士族の多かった首里・那載の小学校の児童が断髪するのではなく,農村部の小学校児童が断髪していることは注目すべきで、比嘉春潮は「沖縄現代社会・風俗史」で平民から断髪が広まった事に関して「隷属からの解放と意識したため」と記している。

上沼八郎 は「沖縄教育史」で「開明化の実感は,身分制の否定」「国頭や中頭地方の農民層が断髪に応じたのは当然だ」としている。 

小熊氏が言うように、「断髪」は「日本人化」「文明化」の為かもしれないが、沖縄県民は琉球士族の支配から逃れる象徴のひとつだったのであろう。

歴史感の改造

p44
” 沖縄の教育にあたって重視されたのは、歴史感の改造であった。
すなわち、琉球処分当時から日本政府が主張していた、
沖縄人が歴史的に「日本人」であるという認識を注入することである ”


” (沖縄の教育関係者も)沖縄人は古来から「日本人」であったにもかかわらず、
中世以来本土と交流が途絶えていたために、
「日本人たるを忘れ」たにすぎないという見識をとっていた。 ”



現在において、DNA的には沖縄県人は日本人であることがほぼ立証されているが、1998年当時はどうだったのだろうか?
その頃にはもう 港川人(原人)が沖縄人のルーツでない事はわかっていたはずだが、科学的にはまだ議論があった時期なのかもしれない。





現在において、
琉球人・沖縄人は民族的には11世紀頃から九州から南下してきた大和民族(和人)が母体となっていることがわかっている。

”中世以来本土と交流が途絶えていたために、「日本人たるを忘れ」たにすぎない”

これは ほぼ正しいのではないでしょうか?


琉球は薩摩侵攻後非日本化・中国化を進める

一般的な認識として 琉球の中国っぽい風習や文化は、明や清に日本(薩摩)支配下であることを隠すために、表面的な中国化を進めていった結果である。

琉球は貿易立国とし、東アジア~東南アジアの広範囲に及ぶ交易で栄えていた。
しかし、1430年代からは明の優遇策が徐々に廃止されていき、15世紀半ば以降、朝貢貿易は衰退していく
それと並行して、オランダ・ポルトガル・英国などのアジア進出に伴い東南アジア交易は国際競争の時代に突入していき、薩摩侵攻時はすでに終焉期であった

参 考
東南アジア諸国への派遣(貿易)船の最終航海年
ジャワ:1442年
スマトラ:1468年
マラッカ:1511年
シャム:1570年

1600年頃の琉球にとっては朝貢がほぼ唯一の貿易であった。
中国に琉球が薩摩(日本)支配下にあった事が察知されると、王の承認(アジア諸国との貿易権に必須、しかしもう重要性は低め)と朝貢貿易が停止された場合、経済的利益を失い国家存続の危機に見舞われることになる。
薩摩支配下になって すぐの頃に中国にそれを疑われ、朝貢がしばらく停止させられた。

そこで、大胆な「中国化」を薩摩と強調し推し進めていった。
特に中国化は尚敬王(1713~1751年)時代に推し進められた。
(この偽装化は中国にうすうす感ずかれていたようだ、無理に中国化する必要も無かったのかも?)

国策として 人工的に中国化が200年以上続いたので、琉球・沖縄が「日本人たるを忘れ」たのは仕方がないことである。

小熊氏のいう「歴史感の改造」で無く「歴史感の修正」と私は考えています。

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