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被害者ポジションで 沖縄の人々の自己決定権を否定して 日本を責める 悲しい人

2024年2月23日  2024年2月23日 

沖縄方言の衰退は 戦後 沖縄の人々が自己決定権を得て、推進した日本語(共通語・標準語)教育の弊害として 沖縄各地の方言が衰退したのである。

沖縄方言の衰退は、当時の沖縄県民の目標であった「日本復帰」の副作用とも言える。

それを後の 左翼的?意識高い系?沖縄は差別されている系?の人々はそれを否定し、責任を他人(国)に押し付ける。。 
もう うんざりだよ

つい数十年前の事象さえ思想により歪曲する人々。。

同じ沖縄県民として悲しいよ



”私たち琉球人は植民地化で言語継承が許されず琉球の伝統文化を根幹に持つことが困難な状況に立たされています。ユネスコは琉球諸語を危機言語レッドブックに記載し、人権理事会や人種差別撤廃委員会も日本政府に琉球の言語権を認め学べるような手立てをと働きかけています。私たちにも母語デーを。”


沖縄方言を誰が抑圧したか?

日本国が法律で方言を禁じたわけでもなく 沖縄県民の意志で方言を抑圧した。

もちろん誰からも方言を抑圧するような命令は受けていない、県民の意志であった。

当blog記事

素人のおっさんが 小熊英二「<日本人>の境界」第22章 一九六〇年代の方言札―戦後沖縄教育と復帰運動を読んでの感想 で詳しく書いたので興味があれば読んで下さい


戦後 沖縄の教育は一部米国の制限があったが、かなり自由であった。


民政府文教部編集課長仲宗根政善によれば、
米軍から沖縄諮言旬会(戦後初 沖縄の行政機関)に対して米軍から「方言」で教科書をかいたらどうかと諮問を受けたという。
(新崎盛暉編『沖縄現代史への証言(下)』、沖縄タイムス社、1982年、189頁)

・・
日本語・英語・あるいは沖縄方言の教科書で教育を受ける選択肢があった。

その中で 日本語による教育を(教職員を中心に)県民は選択した
これは 沖縄のいわゆる自己決定権を行使したもである。

・・

現在 沖縄県民の場合 概ね、60歳代(~50歳代 地域や家庭環境による)をボーダーラインとして、それ以上の年齢の方々は 各地地元方言を話せる

しかし、それ以下は話せない人が多い

・・


〇1955年教育研究中央集会発表
嘉手納小学校での家庭、校内、学年別、男女別「共通語使用実態調査」結果
「家庭に於ける標準語使用の状況」について、
・標準語使用家庭 5.59%、
・方言使用の家庭64.98%、
・混用している家庭29.43%

〇1957年昭和32年発表実態調査報告データ
全生活で共通語を使用している割合(中学生)
・那覇 13%
・名護 0.3% (多用している10%)


上記より、現在はおおむね80代前後以上の方々の多くは、当時 主に方言で生活していたことになるが、なぜ 60歳代をボーダーとして方言が話せなくなったのか?


それはなぜなのか?

・・・

それは 前記のように県民の選択である。

1951年 二回全島校長会で「標準語の励行を徹底」することが「本年度重点目標」の一つに掲げられ、標準語に習得を妨げるものとして 方言がやり玉に挙がった。

1950年前後に 「方言札」が沖縄各地で復活している

1950年といえば 沖縄はもちろん日本に復帰していないので、日本の法律は無関係であり、そもそも方言を禁止する法律は日本に無いのでは?

・・・

名護小学校の1949年度の卒業生
「五年生になった時、標準語励行運動が努力目標になり、『方言札
が回されるようになった。最後にこの札を持っている者が罰せられる仕組みになっていた」
(名護市立名護小学校創立百周年記念事業期成会記念誌編集部編『名護小学校創立百周年記念誌』、1983年、507頁。

沖縄市出身の幸喜良秀
「戦後最初の小学校一年生は僕たちから始まるんだけれども、終戦直後はわりと方言は自由でしたね。ところが、四、五年生になって、共通語励行ということが頻繁に言われるようになった。一九五〇年前後でしょうか、熱心に共通語励行をさせられました」
(高良勉『発言・沖縄の戦後五〇年』、ひるぎ社、1995年、ll4頁。)


1949年生まれ高良勉(玉城村)
小学校一年生になってはじめて日本語に出会い 日本語を使うのは学校の授業だけで、休み時間やいえに帰ると琉球語が中心 小学校三、四年生の頃から、「標準語励行運動」が盛んになり、そして校内に「方言札」が出廻るようになりました。 それがたび重なると、放課後のこされて竹ぼうきの柄がバラバラになるまでおしりを叩かれることもありましたしかも、その方言札が部落や地域にまで出廻るようになりました。おかげで、家に帰っても安心し琉球語が使えません。 高良勉『発言・沖縄の戦後五〇年』、ひるぎ社、1995年、ll4頁、19頁。より抜粋

まぁ ここまで書けば、、日本復帰前 方言札あるいは体罰を使用し方言衰退策を実施したのは 屋良朝苗を先頭とした沖縄教職員会(沖教職)である事は否定できない事実でしょ?
ところで、屋良朝苗や沖教職は日本国から無理強いされたのだろうか???
・・



琉球人は植民地化で言語継承が許されず??

1958年 琉球政府がいわゆる教育四法を公布する。この教育基本法の前文に「日本国民として」の教育を掲げた

言語・方言を抑圧したのは 誰か?
私たち戦後の沖縄県民です まぁ 積極的に行動したのは沖教職や県教育者ですね。
そして各部落の人々そして家庭も協力していた

方言抑圧は 復帰後しばらく続いていました
私は昭和生まれのおっさんですが、復帰後の小中学校時代に(私の学校では)方言札は無かったが、学校で方言を話すことは悪い事だという教師の発言は何度も聞いている

言語継承を許さなかったのは その教師達なんでしょうか?
復帰後なんで沖教組(日教組)の仕業ですね w



追記)

沖教組の歴史
https://oki-tu.org/about_us/history

沖教組は敗戦後の混乱の時代に、子どもたちの将来のために立ち上がった教師たちによって、結成された「沖縄教職員連合会」に始まります。その後、「沖縄教職員会」として焼け野原だった学校に「戦災校舎復興運動」を通して教科書や教育備品の受け入れをし、戦後の教育に力を注いできました。また、米軍占領下で植民地教育を許さないために「教育基本法」をはじめとする「教育四法」を立法化させ、復帰のめどが立たない時代に「日本国民」としての教育の指針を確立しました。さらに、祖国復帰運動の中心的な役割を果たし、戦後初の主席公選では、当時の教職員会会長の屋良朝苗先生を当選させました。その後1971年に「沖縄県教職員組合」として労働組合に発展移行し、現在に至っています。
その間も、私たちは、子どもたちの健やかな成長を願い、「学習権の保障」「わかる授業」「楽しい学校づくり」をめざして、平和と民主教育の確立のため努力してきました。さらに日教組に加盟し、「教え子再び戦場へ送らない」を基本理念とし沖縄県の子どもたちの未来を創造するため活動をしています。
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