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小熊英二「<日本人>の境界」第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学 素人おっさんの感想 (1)

2023年9月5日  2024年2月10日 

とある出会いがきっかけで、  小熊英二 著「〈日本人〉の境界」を読んでます。

・・

注 意
章単位で感想を書くと 各章の繋がりや全体の流れを無視してしまう事があります
章を読み進めていき関連する内容があれば 随時追記します。
すべて読了後 まとめて感想を書きます。

明治の日本は、日本国民画一化(標準化・平準化)を目指していた。同じ国民でありながら地域によって差異が生まれないようにする平等化とも言える。

沖縄県民の日本人化とは、他県民なみの教育レベルや生活レベルへの向上を目標として日本国民画一化の一環であったと考えます。

小熊のいう「日本人化」は「植民地化」「皇民化」を示しているのかもしれないその点は別記事にします
とりあえず 本blog記事中で「日本人化」という表記をするが、その意味は読み手の貴方の判断にまかせます

第1章 琉球処分―「日本人」への編入。
第2章 沖縄教育と「日本人」化―同化教育の論理
を読み終えました



第12章に入る前に ここまで読み終えた個人的な感想です。

第1章 琉球処分
琉球処分に賛成・容認する一派については一切触れない事。琉球処分反対が琉球の総意であるような流れ(守るべき平民や百姓の感情は無視)


第2章 沖縄教育と「日本人」化
日本化・文明化を受け入れる百姓や平民らを、日本に騙された哀れな人々、、ととれるような書きぶり、、

小熊英二は、日本批判の為に琉球・沖縄を利用しているだけではないかと?
実は、沖縄県民の事は二の次ではないのか?
そんな印象です

目 次
「<日本人>の境界」で当blogで扱う予定の章のみ抜粋します。
読み進めて関連性がかなり強いと思われる章は追加する場合があります。
第1章 琉球処分―「日本人」への編入 当blogの感想文はここ
第2章 沖縄教育と「日本人」化―同化教育の論理当 blogの感想文はここ 

第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学 当記事
沖縄にとっての同化/二重のマイノリティ/防壁としての同祖論/沖縄ナショナリズムと同祖/排除と同かの連鎖/啓蒙知識人として/挫折した沖縄ナショナリズム

第15章 オリエンタリズムの屈折―柳宗悦と沖縄言語論争
第18章 境界上の島々―「外国」になった沖縄
第19章 独立論から復帰論へ―敗戦直後の沖縄帰属論争
第20章 「祖国日本」の意味―一九五〇年代の復帰運動
第21章 革新ナショナリズムの思想―戦後知識人の「日本人」像と沖縄
第22章 一九六〇年代の方言札―戦後沖縄教育と復帰運動
第23章 反復帰―一九七二年復帰と反復帰論

では 
感想文を書いてみます。(追記アリ)

私は、文章力が無いので、小熊英二 著「〈日本人〉の境界」を確認しながら進めるとわかりやすいと思います。

第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学



小熊は本章のテーマである伊波氏の話に進む前に 当時の言論界の様子を語っています。

沖縄側にとっての同化
p288
”日清戦争で清が敗北して以来、沖縄の親清派はほとんど後を絶ち”

小熊は日清戦争後 親清派が激減したとしています。
日清戦争が要因のひとつだとしても その前に旧士族に大ダメージを与えた事件二つがありました。
一つは目は サンシー事件に対する尚泰の対応

サンシー事件とは

サンシー事件(サンシーじけん)は、1879年明治12年)4月の沖縄県で起きた、県役人殺害事件である。事件の名称は、被害者が琉球処分後の新体制に賛成(サンシー)した者であることから。

事件発生を受けて明治政府が、琉球処分後の旧琉球王国支配階級を懐柔するため、旧慣温存政策をとらざるを得なくなった原因の一つとも言われている。引用:wiki

この時 尚泰は事件を起こした旧士族らを批判している
この対応に関して我部正男(元琉球大学法文学部教授)は尚泰が転身変身したとしている。 
東京に幽閉の身である尚泰は 、一八七九年(明治一二) 一〇月八日 、沖縄の富川親方にあてて書簡を送っている 。(略)
この書簡は、非協力・不服従運動の最中枢に位する旧琉球藩王尚泰の獄中からの敗北宣言にも似たメッセージで、 その転身 ・変身ぶりは実にあざやかというほかない
尚泰の挫折と変心は、 まさに統合における新しい支 配・ 服従関係の成立を告げるものであり 、 王府への服従を解除し 、旧藩王のカリスマ的権威を利用して、明治国家すなわち、統一権力への服従の転換を指導及び誘導するものであ った
引用:https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/35/0/35_0_79/_pdf/-char/ja

この時点で いわゆる親清派の大義は無いとともいえる
そして二つ目は
1884年(明治17年)に、尚泰(琉球国最後の王)が、一時沖縄に帰ってきた。
日清戦争の10年前です。

その時、尚泰は、明治政府への忠誠を説き、琉球救国運動をしている脱清亡命者を批判しました。
これは、士族らに大きなインパクトを与えた。
琉球王国復興又は救国運動に身を投じていた脱清派にとって、その忠誠を尽くしていた琉球国王の尚泰が、琉球救国運動をする士族らを批判したのです、それは大事件ですよね?


尚泰から見放された亡命琉球士族や反日士族ら(親清派である頑固党)を、これまで表立って批判できなかった他の士族から孤立するようになった。
県民からも批判された。
我部正男(元琉球大学法文学部教授)はこれを
これは尚泰の意思の率直な表明ととるよりも、 政府の意図で操作されている尚泰の姿と見る のが妥当ではなかろうか
とみているが 私個人的には、
尚泰のこの発言は 明治政府の意向を組んだものなのかもしれませんが、不本意な発言ではなかったと思います。
参照 
を読んでいただけるとわかりやすと思います

小熊は尚泰のサンシー事件の対応や帰沖時の発言について触れていません。

p281
”明治中期から沖縄の主要新聞となってなっていた「琉球新報」を中心に、論壇では日本への同化論がさかんになっていた。”

*琉球新報は現存する琉球新報社とは別

この琉球新報を1893年(明治26年) 日清戦争勃発の前年 に創設したのは
尚 順:尚泰の四男 
高嶺 朝教:按司地頭(琉球の大名格)の家系
護得久 朝維:尚泰の長女・真鶴金の夫となる
太田朝敷:士族の家系 (系譜などよくわからない 笑)

バリバリ士族の経営陣を持つ琉球新報社で日本への同化論が語られている。
1章2章と 沖縄全体が琉球処分に反対しているような書きぶりであったが、やっとここで親日派(開化党:白党)の存在がでてきました。

開化党の太田朝敷と尚順らが中心となり、琉球も日本も愛国するという愛国協会(後の公同会)を創設します。
日清戦争の前の年なんで 日清戦争とは無関係ですよね?

この会の目的は 尚泰を沖縄県の知事にして沖縄人による沖縄県政をつくる事でした。
これは親清派も琉球を愛国する部分では賛同できるだろうから 合同で戦う意味で大きい
(他県において旧藩主が県知事になった例はあるのだろうか??)
(旧藩主は華族であり 知事は役人)

本書で伊波の前に、その太田朝敷氏を紹介しています。
p281
”太田朝敷が、1900年の講演で「沖縄今日の急務は何でもあるかと云えば、一から十まで他府県に似せる事であります....(略)”

太田朝敷の発言を引用しつつ小熊は、p281「沖縄側にとっての同化」とは沖縄県民の勢力を発展させること 
であるとしています。
(”一から十まで他府県に似せる事であります”としつつ旧藩主を知事にする 他県にはないシステムを何故つくる?)

1896年の公同会事件(前述の目的を果たすための請願)は失敗した。
失敗した主因は、「公同会運動は時代錯誤」「自治より制度改革を優先すべし」の県民の声。
これは、「日本人化」「文明化」「教育」で市民に人権意識が芽生え向上してきている証拠の一つ、これで士族階級の権威低下が確実に起こったでしょう、旧慣温存政策廃止へ進む過程のひとつですね。

公同会事件の失敗と前年の日清戦争をうけ小熊は、日本への忠誠心ではなく 沖縄県民の地位向上と平等化へ策としての同化に進むとしていますが、どうなんでしょうか?。
もしそうであれば 日本化(同化)は県民の思いであり 強制されたものとは言いずらくなりませんか?

・・

人類館事件
1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・生蕃(台湾先住民)沖縄県(琉球人)・朝鮮人・清国人・インド人などの32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行った。これに沖縄が抗議した事件。
p286
”このとき太田は「琉球新報」の記事で「我を生蕃アイヌ視したるものなり」と猛反発し..”


太田朝敷の抗議は、沖縄は民族的に日本人であるから他の民族と一緒にするな!
である。
見世物的な事に怒っていたのではない!


現在 沖縄メディアが人類館事件を扱う場合 太田の「沖縄は日本人である」「他民族と同列に扱うことへの抗議」の部分はスルーして、
「県民への非人道的な扱いは差別である」として怒ったことになっている。
..
人類館事件での県民の反応で 小熊はこれをもって
p286
”沖縄人が「日本人」であるという主張が、沖縄内部に浸透したことを意味していた。”

そして、伊波の登場前に沖縄側の自己規定(沖縄人は日本人であるという風潮)は熟成されていて 沖縄学を展開していく
としている。

..

二重のマイノリティ

やっと 伊波の話がでてきます。
その前に 12章冒頭にもどります
p280 
”「当時の沖縄人は、日本人であるのか、それとも支那人であるのか、自分でも能くわからなくなってていたのである。かういう風に、彼らを曖昧な人民にしておくことが、その密貿易の為には、都合が良かったのである」”

”沖縄学の父とよばれる伊波晋猷は、薩摩支配下の琉球を形容して、このように述べている
(これに注釈(1)がついている p713である 確認してほしい 小熊の注釈はやたら詳しいが、素人の私の理解不足なんだろうけど 関係がない部分まで引用注釈していないか?ピンポイントで示してほしいところです) 


これは薩摩支配下の琉球国を批判したものですよね
朝貢([貿易]=鎖国下における密輸入の為)に偽装工作をし、日本的文化を隠蔽し中国的な文化を前面に出す。
よくわからない曖昧な人民にしていたのは 薩摩であり共謀した琉球です、伊波は 薩摩と琉球士族を批判していると考えますが、

小熊がこれを章の冒頭にこれを持ってきた意味はなんだろう?と考えてしまいます(笑)

伊波は那覇の出であるが首里の師範学校附属小学校に入学する。
その時 首里の生徒たちは伊波を「余所者」と冷やかしていた。

小熊は
p287
” 現在のわれわれは、ヤマトと沖縄という対立に目がむかい、当時の沖縄内部の差異を見落としがちである ”

” いずれにせよ、伊波が「余所者」として排斥をうけ、同化によってそれをのりきった最初の相手がヤマトではなく首里士族であったことに注目に値する ”
と書いた。
・・

>現在のわれわれは、ヤマトと沖縄という対立に目がむかい
私は、小熊は偏狭な視点だなと思った。

沖縄県民の私は
当時
本島と離島の対立 沖縄と奄美の対立
旧士族と百姓の対立 親清派と親日派の対立
旧慣温存政策廃止派と持続派の対立
など沖縄には沢山の対立があると思っている。


二重どころか何重のマイノリティがあると思っている
しかし それでも 伊波をマノリティとするのは違うだろう?と思う
それはあくまでも首里目線であるだけだ、首里士族も那覇に行けばマイノリティである。
誰でもマイノリティになれるのである。



伊波の思想は、近代日本による沖縄差別への批判が不十分だったことです。
そのため、沖縄人としての誇りを見出す一方で、天皇制国家に沖縄を組み込む政策の手段として悪用されたとの意見もあるが、、。


だが 琉球士族が琉球国民に対して行った悪政や差別に比べれば 日本の沖縄差別とされるような事は それに比べたら 容認できるレベルでるあるという事を忘れてては行けない
差別があっても 個人的な内心の問題である
法律として差別されているとしたら、、それは 旧士族らによる旧慣温存政策が原因である。

ここで琉球処分当時のアジアを振り返ると
中国の冊封・朝貢体制の崩壊する時代である

東南アジアでは、(略)中国へ朝貢していた東アジアの国々が欧米列強の植民地となっていきます。
そのような欧米列強の東アジア進攻によって近世期の中国を中心とする冊封・朝貢体制が崩れていく時代背景が、琉球処分の過程と重なっているわけです
第5回 定例研究会 第2部 明治沖縄の自律構想と運動 沖縄大学助教授 屋嘉比収https://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/8021/

ここで、一応 末席ながら旧士族の伊波は何を感じているのだろうか?
沖縄の為に 清につくべきか?日本につくべきか? そう葛藤したのだろうか?
 


久しぶりに一気に文章を書いたので 疲れました 
続編を後日書きます。
この記事は 
小熊英二「<日本人>の境界」第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学 素人おっさんの感想 (1)

とします。
次は
小熊英二「<日本人>の境界」第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学 素人おっさんの感想 (2)の予定
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