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2026/03/13

[ここ一年ぐらい考えてた「しんどさ」について]を読んだ個人的感想

So Sugayaさんが書いた記事
https://x.com/SugayaSo/status/2031687686894014716

には今の沖縄が抱える「従来とは異なる局面のしんどさ」が綴られていた。
いくつかのポイントについて、私なりの感想を書いてみた
ざっと書いたので 誤字脱字はご勘弁を!
反論はご自由に!

あくまでも素人の感想です。

「基地反対への嫌悪感」の正体はどこにあるのか

記事では、基地建設に反対する人々を毛嫌いする層の根底に、「無力感やニヒリズム(虚無主義)」があるのではないかと分析されている。「反対ばかりで建設的ではない」という批判の裏側に、諦念が渦巻いているという指摘だ。

たしかに、長く続く基地問題に対する出口の見えない疲れは、社会を覆っている。しかし、私の肌感覚では、その嫌悪感の正体は「諦め」だけではないように思う。

今、沖縄で暮らす多くの人々が、かつてないほど「中国の脅威」をリアルなものとして感じているのではないか。

これらは単なる冷笑ではなく、「今の現実的なリスクをどう守るのか」という切実な生存本能に近い。米軍だけではなく自衛隊をも批判する勢力に対する厳しい視線は、無力感というよりは、むしろ「目の前の危機に対する危機感のズレ」への憤り(或いは呆れ)にも見える。


「しんどさのレイヤー」が変わったという実感

文章はこう続く。
「今の沖縄社会が抱えるしんどさのレイヤーは、従来と異なる局面に突入しているのではないだろうか」

この「しんどさ」の変化には、強く共感せざるを得ない。 かつての沖縄は、経済的に苦しくとも、地縁や血縁という強固な「互助精神」がセーフティネットとして機能していた。親戚や地域社会が、ある種の「温かみ」を持って個人を支えていたのだ。
しかし今、その地域社会や共同体の仕組み自体が、崩壊し始めている。
「ゆいまーる(助け合い)」の精神が、都市化や生活スタイルの変化で維持できなくなっている現実

生活の糧を得るために四苦八苦する中、かつての「楽観的な共同体観」は過去のものとなり、「繋がりを失った中での困窮」こそが、今の沖縄が直面している新しい、そしてより深い「しんどさ」の正体としている。のは概ね賛同できる






「基地反対への嫌悪感」は停滞ゆえの恐怖なのか?

記事では、基地反対派への忌避感を「自分の世界を乱さないでほしいという、恐怖に根差した停滞」と結論づけている。しかし、この分析に疑問を感じる。

そもそも、復帰後一貫して「米軍や自衛隊基地反対活動家」は存在し続けてきた。沖縄県民にとって彼らが存在すること自体は、もはや日常の一部であり、今さら「秩序を乱す存在」として怯えるような対象ではないはずだ。

では、なぜ今、彼らへの視線がこれほどまでに厳しくなっているのか。
前記の「目の前の危機に対する危機感のズレ」と
もう一つ 
 近年、YouTubeなどのSNSを通じて、いわゆる「平和主義者」を自称する人々による、暴力的で過激な活動の実態が広く県民に知れ渡るようになったからだ。
・「平和」を掲げながら繰り広げられる、暴力的な振る舞い
・一般県民の感覚とかけ離れた、過激なパフォーマンスへの違和感

こうした実態が可視化されたことで、多くの県民は「自分たちの思いを代弁している」とは到底思えなくなったのではないか。

著者の言うような「変化を恐れる停滞」ではなく、「手法の是非」や「活動の質」に対する至極まっとうな拒絶反応。
それが、今の沖縄社会に流れる冷ややかな空気の正体ではないかと思うのだ。



「平和」という言葉が、いつの間にか「救済」にすり替わっている違和感

記事では「平和という言葉が呼び寄せるもの」という見出しの項がある
読み進めてもその中身は、自治会の弱体化やスピリチュアルな信仰への傾倒、既存システムへの不信といった話が中心だ。正直なところ、見出しと内容の関連性が、私の読解力ではスッと入ってこない。

この項(目)は私には難しかった







「土着のエリート」は消えたのか、それとも価値観が変わったのか

次の項では、進学校(4Kや昭和薬科など)の台頭によって、地元の行事や青年会に関わらない層が増え、結果として共同体の安定構造が壊れたと分析されている。しかし、この「教育ルートの分離が共同体崩壊の主因である」という説には、違和感がある。

たしかに、より優秀な学生たちが県外の難関大学や医学部を目指す傾向は強まっている。しかし、私の実感では、昔から「学業に専念する層」と「地域活動に熱心な層」はある程度分かれていた(両立する生徒もいる)のは今にまったことではない。
また、県外に進学しても、卒業後に沖縄へ戻り、地元で就職する若者も決して少なくはないはずだ。

共同体の綻びの真の原因は、教育ルートの分離というよりも、もっと根深い「価値観のシフト」にあるのではないか。
・戦後リベラルが推し進めてきた「個人主義」の浸透
・「自分や身内」を最優先し、地域への貢献は後回しにするというドライな感覚

かつては「一族の誉れ」や「地域の顔」として公務員や教員を目指した時代もあったが(今もその傾向は強くある)自分自身のキャリアや条件を優先し、それが良ければ県外でも国外でも働く。それは教育レベルの問題というより、「身を粉にしてまで地元(一族・共同体)に尽くす」という動機そのものが薄れているということだ。

著者はこれを「教育ルートの分離による皮肉」と呼んでいるが、実態はもっとシンプルに、「共同体への所属意識」が個人主義によって上書きされた結果のように思える。
育った集落や自治体への帰属意識よりも、「個人の幸福」を追求する。この価値観の変化こそが、かつての安定した構造を内側から変えてしまったのではないだろうか。




社会運動の退潮と、塗り替えられた「リアリティ」

元記事では、コロナ禍において「命を守るために自由の制限を受け入れた経験」が、社会運動への意欲を減退させたのではないか?という仮説が立てられている。
しかし、これも多くの沖縄県民が抱いている実感とは、少しピントがズレているように思えてならない。

反基地運動の熱量が低下しているのは事実だが、その背景にあるのは「自由への執着が薄れた」といった精神論ではなく、もっと明確な「情勢認識の変化」ではないだろうか。

その変化とは
①基地は着実に減少しているという現実 復帰後、米軍基地は一貫して返還・減少のプロセスを辿ってきた。かつての闘争のステージからは、確実に変化している。
(普天間基地が辺野古に移設されれば更に基地面積は減る)

②「侵攻する側」から「侵攻される側」へ かつての反戦運動の多くは、「日本が再び戦争を仕掛ける(あるいは加担する)側になる」という懸念に基づいていた。
しかし、近年の緊迫する世界情勢を前に、多くの県民は「日本はむしろ侵攻される側になるのではないか」という正反対のリスクを強く認識し始めている。

著者はコロナ禍の「自由の制限」と結びつけているが、私には同意しがたい。 人々が社会運動(ここでは主に反基地運動)から距離を置くようになったのは、コロナで従順になったからではない。
「何が本当の脅威なのか」というリアリティが、かつての運動家たちが掲げていた思想(物語)を追い越してしまったからだろう。

「命を守るための闘い」の対象が、もはや基地反対という枠組みだけでは語れなくなっている。この認識のズレこそが、かつてのような団結が生まれにくい最大の要因ではないかと思うのだ。



「エリートの逃走」という著者の誤解

次の項では、教育を受けたエリート層が個人主義に走り、地元の課題に向き合わずに「外部」へ逃走していると批判的に綴っている。しかし、この主張にはいくつか大きな疑問がある。

まず、「個人主義」について。これは一部のエリートに限った話ではなく、現代を生きる若者から中年層まで、社会全体に浸透している価値観だ。
そして、沖縄の共同体を「閉鎖的だ」と批判するのは、地元で育った彼ら自身というより割合としては、むしろ県外からの移住者が主ではないだろうか。
沖縄も他の地方と同様に排他的な面はあるが、それは「相性」の問題として昔から語られてきたことであり、今さらエリート層がそれを理由に逃げ出しているという解釈には違和感がある。

何より、著者の大きな勘違いは、「沖縄の若者は外部に逃げている」という前提そのものにある。


沖縄県の県外就職率と地方県との比較

大卒者の県外就職率
(大学卒の県内就職率(2025年3月)から逆算) (資料1)
公表している23県(ほぼ地方県)を比較した場合
沖縄県の県外就職率は37%で一番少ない 
北海道が39%で2位
山口県が73%で22位
鳥取県は79%で23位(最下位)

参考:AIの回答「大学生のUターン就職について」
 宮崎、沖縄、鹿児島はUターン率が高い傾向にある一方、都市隣接県(奈良、埼玉など)や、地方単独のエリアではUターン率が低下する傾向がある。


これらが示す事実は、
沖縄の大学生は 他県に比べて断然県内で就職する
そして県外に進学した大学生は沖縄県内で就職する傾向が高い(Uターン)

エリートに関わらず、今は誰でも外部(県外・国外)へ活動の場を広げられる時代だ。それにもかかわらず、多くの若者が他県に比べて県内にとどまっている(或いはUターン)。
それならば、著者が説く「エリートの外部への逃走による共同体の崩壊」という結論は見直されるべきではないだろうか。





まとめ的なやつ

結論:誰かのせいでもない、価値観のパラダイムシフト
(しいて言えば リベラルが広めた「個人主義」)

ここまで元記事を私なりに読み解いてきた。
最後も私なりの結論をまとめておきたい。

著者はエリート層が共同体を捨てて「外部」へ逃げていると批判するが、そもそも現代において、県外への進学や就職はエリートだけの特権ではない。非エリート層であっても、現場系の職種を中心に県外からの求人は多く、望めば容易に沖縄を離れることができる。

つまり、「外に出る」という選択肢は誰の手にもある。
 その状況下で、共同体の崩壊という大きな問題を(共同体のリーダー的)エリート層だけの責任として背負わせるのは、あまりに短絡的ではないだろうか。
(共同体の主体である)非エリートも重要な役割を持つはずだ。


結局のところ、問題の本質はもっとシンプルに、属性を問わず、社会全体に「個人主義」が浸透したこと
それに伴い、かつての「集団意識」や「郷土愛」に基づく義務感が薄れたこと

「逃げられる自由」があり、かつ「個人主義」が浸透している時代にあって、沖縄の人々は他県に比べればむしろ「逃げていない」のである。

そして 反基地運動への忌避は、単に世界情勢の変化が主因だろう。
「攻め込むより攻め込まれる恐怖」への対応の変化だ。
特に若い世代に顕著だろう。



最後に、私たちが認めなければならないのは、行き過ぎた「リベラル的な個人主義」がもたらした弊害だろう。

個人の自由が尊重されるのは当然だが、それが行き過ぎて共同体や国との繋がりを断ち切ってしまえば、結局のところ、私たち自身を守る基盤が失われてしまう。自分のため、身内のため、そして地元の生活を守るためには、まず自分たちが暮らす「国」を愛し、「地元」を愛するという価値観も、今の時代こそ極めて重要であるはずだ。

「個人の自由」だけを追求するのではなく、かといって過度な全体主義に走るわけでもない。
「個人の自由」「国の有り方」「愛国心」
これらが適切なバランスで共存する「ちょうど良い割合」を、今の沖縄、そして日本全体で模索していくべきではないだろうか。
地に足のついた愛国心や地元愛こそが、綻びかけた共同体を繋ぎ止め、本当の意味で私たちの「命と自由」を守る盾になるのだと思う。




資料

(資料1)大学卒の県内就職率(2025年3月)
https://jinkougenshou.com/entry/2025/09/21/190007