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沖縄キリ学の大城宜武先生に 素人おっさんが突っ込みを入れる「琉球独立論の歴史と現在」

2023年7月18日  2023年7月26日 
大城宜武 先生
 おおしろ・よしたけ
沖縄キリスト教学院大学名誉教授。社会心理学、意味論、マンガ学、戦後沖縄社会思想。
医学博士(東邦大学)


大城先生の

琉球独立論の歴史と現在
琉球のアイデンティティ確立への切なる願い

が気になったので  ド素人のおっさんが 少し突っ込みを入れてみる



源為朝 舜天 日琉球同祖論 などについて


まずは 簡単に 源為朝琉球渡来説について

源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている伝承
日琉同祖論と関連づけて語られる事が多い。



『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけ?


大城宜武氏は
源為朝 舜天や日琉同祖論 を否定している。
根拠として紙屋敦之(1990)引用している
1609年の薩摩の侵略まで日本から見て異国であった琉球に、日本の天皇を意識する条件はなかった。『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけである(25ページ)


大城宜武氏は 源為朝の伝説は 薩摩の押し付けとしているが、、

引用:為朝伝説と中山王統
矢野美沙子




臨済宗僧侶・月舟寿桂(1470年 - 1533年)の「鶴翁字銘并序」にて、真偽不明としているが 琉球出身の僧、鶴翁智仙から聞いた話として

「源為朝が琉球へ渡って支配者となったという伝説がある。その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」(要約)とある。
また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料である浄土宗の袋中良定が書いた「琉球神道記」においても


引用:琉球言説にみる武人伝承の展開 目黒将史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/55/0/55_55_128/_pdf/-char/ja
『琉球神道記』には「為朝」と思われる記述が三例ある。「為伴」「為友」と表記は様々だが、いずれも為朝のことであろうと思われる。三例ともに琉球の神について記された
とある。



為朝伝説は薩摩の創作ではない事は はっきりしているだろう、

問題は
大城宜武氏はの言う「 薩摩の押し付け」
が正しいのか?という事になる

次に 為朝伝説は薩摩の押し付け? について考える

『中山世鑑』の為朝伝説は薩摩の押し付け?


大城氏は 紙屋敦之の ” 『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけである ”論を借りて 薩摩が日琉同祖論を推し進めたと考えているようだが、、

あの「大和めきたる名字の禁止」で有名な 1624年寛永元年八月二十日に薩摩藩が琉球に対して発した「定」では
引用:『鹿児島県史料旧記雑録後編』巻七十七 
「定」
 一、三司官その外諸役職の扶持方、自今以後は御分別次第たるべきのこと
 一、科人死罪・流罪の儀、この方に御伺いに及ばず、御分別次第たるべ きこと
一、日本名を付け、日本支度仕り候は、かたく停止たるべきこと
一、おりめまつりの儀、この方御蔵入の分は、耕作時分違わざるようにと仰せ付けられ候、御分領の儀は御分別次第たるべく候
 一、他国人その地へ参る儀停止たるべきこと

 ざっくり言えば

・三役の給与は琉球で決めろ。
・重罪の裁判権は琉球にある。
日本風の名前をやめろ、日本風の服装をやめろ。
・祭りごとはは琉球で決めろ。
薩摩藩人以外は琉球にいれるな。
とある 

風俗など琉球の日本的なものを禁止しているのである

理由は、琉球が日本の支配下にあると 中国(明、清)が感づけば 、利益を生む貿易(朝貢)が停止すと 考えたからで、、

大城氏の想定?(為朝伝説を通じ日琉同祖論の押し付け=日本化)と異なり薩摩侵攻後に琉球の中国化が進む
例えば、
侵攻以前の琉球の公文書や碑文は かなまじり文もあったが、それらが全て漢文に置き変わった。
久米至聖廟(孔子廟)は1676年に建設された。
シーミー(清明祭)は歴史書「球陽」によると、その起源は1768年。
など

以上のことより『中山世鑑』の為朝伝説は薩摩の押し付けとは 言いにくいのではないか?



島津侵攻時に 琉球に軍隊は無かったのか?武器を持たなかったのか?

大城先生の 琉球独立論の歴史と現在 には気になる一文がある 
さらに秀吉は中国(明)出兵を画策し、琉球に出兵を要求した。島津は兵糧として米7千人10カ月を拠出するように琉球に伝えた。しかし琉球では、尚真王(在位1477-1526)の治政の世に刀狩りが行われ武装は解除されていた。軍備のない琉球に兵はいない
尚真王(在位1477-1526)の治政の世に刀狩りが行われ武装は解除されていた。軍備のない琉球に兵はいない

?はい?

尚真王が行ったとされる刀狩は実際にあったものなのか?微妙でして
(仮にあったとしても 百姓や反乱分子になりそうな非正規軍の武器の没収である
秀吉も刀狩を行ったが、、日本は非武装国家になったのだろうか??)

大城先生の言う
刀狩りの根拠とされる 「百浦添欄干之銘」の設置は1509年

しかし、不都合な真実がある。
琉球国は、1450年、1466年、1537年、1571年等に奄美群島に軍事侵攻していて、おおむね15世紀中頃には奄美群島を統治下に編入したと考えられています
引用:奄美の歴史
http://bunkaisan-amami-city.com/%E8%A7%A3%E8%AA%AC
にはどう答えるのだろうか??

1609年の薩摩の琉球侵攻では、琉球軍は4千の兵で 薩摩3千兵と戦った事実は無視だろうか?

そう考えると 大城先生の言う 刀狩りは行われなかった と考えるのが普通だろう
大城先生の理想とは違う意見が多数ある(笑)
尚真が実行した政策の中で最たるものとして、専制支配を強化するために行った中央集権であった。地方の領主(按司)とその家族を王府のある首里に集居させ、加えて武器の一元管理を実行したのが、後になって「禁武政策」と言われた武器の制限であったと伝わる。
http://sohbukan-karatedo.sports.coocan.jp/lesson/lesson2014/lesson2014112.pdf
武器を集め国防に備えたというのであって、それ以外の解釈は成り立たない
要約
(豊見山和行氏(琉球大学)『那覇市史、通史第一巻』)


「百浦添欄干之銘」の第4項目に依拠している(略)この中の武器に関する文言は,これまでほとんど「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈されてきたが,特に最近の研究では「もっぱら刀剣・弓矢を積み,もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」と読み改められるようになってきている(新里(高宮城),2008,104頁;玉野,2013,17頁)注8

https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=31385&file_id=26&file_no=1

 

おまけ  舜天が実在した人物か?

全国に 為朝伝説はあるので その全てが嘘・勘違い・過大な妄想だろうと考えている。
但し 源為朝と身分を偽った者がいた可能性は否定できないと考える。

舜天が実在した人物か?
よくわからない 個人的には伝説上の人物であり実在するか不明だと思うが、源為朝と身分を偽った人が居て 舜天がその子であるとするなら、真実味は増すと思う。

舜天(尊敦・舜天尊敦)が実在する人物なのか?
・1522年の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」の碑文より実在する :伊波普猷
・1543年の「国王頌徳碑(かたのはなの碑)」より否定できない喜舎場一隆
など の意見もある


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