沖縄キリ学の大城宜武先生に 素人おっさんが突っ込みを入れる「琉球独立論の歴史と現在」
おおしろ・よしたけ
沖縄キリスト教学院大学名誉教授。社会心理学、意味論、マンガ学、戦後沖縄社会思想。
医学博士(東邦大学)
琉球のアイデンティティ確立への切なる願い
源為朝 舜天 日琉球同祖論 などについて
『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけ?
根拠として紙屋敦之(1990)引用している
1609年の薩摩の侵略まで日本から見て異国であった琉球に、日本の天皇を意識する条件はなかった。『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけである(25ページ)
「源為朝が琉球へ渡って支配者となったという伝説がある。その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」(要約)とある。
『琉球神道記』には「為朝」と思われる記述が三例ある。「為伴」「為友」と表記は様々だが、いずれも為朝のことであろうと思われる。三例ともに琉球の神について記された
『中山世鑑』の為朝伝説は薩摩の押し付け?
「定」
一、三司官その外諸役職の扶持方、自今以後は御分別次第たるべきのこと
一、科人死罪・流罪の儀、この方に御伺いに及ばず、御分別次第たるべ きこと
一、日本名を付け、日本支度仕り候は、かたく停止たるべきこと
一、おりめまつりの儀、この方御蔵入の分は、耕作時分違わざるようにと仰せ付けられ候、御分領の儀は御分別次第たるべく候
一、他国人その地へ参る儀停止たるべきこと
ざっくり言えば
理由は、琉球が日本の支配下にあると 中国(明、清)が感づけば 、利益を生む貿易(朝貢)が停止すと 考えたからで、、
例えば、
侵攻以前の琉球の公文書や碑文は かなまじり文もあったが、それらが全て漢文に置き変わった。
久米至聖廟(孔子廟)は1676年に建設された。
シーミー(清明祭)は歴史書「球陽」によると、その起源は1768年。
など
以上のことより『中山世鑑』の為朝伝説は薩摩の押し付けとは 言いにくいのではないか?
島津侵攻時に 琉球に軍隊は無かったのか?武器を持たなかったのか?
さらに秀吉は中国(明)出兵を画策し、琉球に出兵を要求した。島津は兵糧として米7千人10カ月を拠出するように琉球に伝えた。しかし琉球では、尚真王(在位1477-1526)の治政の世に刀狩りが行われ武装は解除されていた。軍備のない琉球に兵はいない。
?はい?
(仮にあったとしても 百姓や反乱分子になりそうな非正規軍の武器の没収である
秀吉も刀狩を行ったが、、日本は非武装国家になったのだろうか??)
刀狩りの根拠とされる 「百浦添欄干之銘」の設置は1509年
琉球国は、1450年、1466年、1537年、1571年等に奄美群島に軍事侵攻していて、おおむね15世紀中頃には奄美群島を統治下に編入したと考えられていますにはどう答えるのだろうか??
引用:奄美の歴史
http://bunkaisan-amami-city.com/%E8%A7%A3%E8%AA%AC
大城先生の理想とは違う意見が多数ある(笑)
尚真が実行した政策の中で最たるものとして、専制支配を強化するために行った中央集権であった。地方の領主(按司)とその家族を王府のある首里に集居させ、加えて武器の一元管理を実行したのが、後になって「禁武政策」と言われた武器の制限であったと伝わる。http://sohbukan-karatedo.sports.coocan.jp/lesson/lesson2014/lesson2014112.pdf
武器を集め国防に備えたというのであって、それ以外の解釈は成り立たない
要約
(豊見山和行氏(琉球大学)『那覇市史、通史第一巻』)
「百浦添欄干之銘」の第4項目に依拠している(略)この中の武器に関する文言は,これまでほとんど「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈されてきたが,特に最近の研究では「もっぱら刀剣・弓矢を積み,もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」と読み改められるようになってきている(新里(高宮城),2008,104頁;玉野,2013,17頁)注8
https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=31385&file_id=26&file_no=1
全国に 為朝伝説はあるので その全てが嘘・勘違い・過大な妄想だろうと考えている。
但し 源為朝と身分を偽った者がいた可能性は否定できないと考える。